涙の終わり

「撃つな! ここは私が、相手をする!」
 ジェレミアはそう宣言するとゼロに向かって仕込み剣を閃かせて走る。同じくジェレミアに向かって疾走してきたゼロに対し斬りつけようと行動するより先に、ゼロが動いた。一瞬で跳躍したゼロはジェレミアの肩を踏み台にし、皇帝ルルーシュの場へと向かっていく。
 失態にジェレミアが気づき振り向く際に、主君の姿が視界に映る。その瞬間、堪え切れずジェレミアは顔を歪めた。一気に感情が溢れ出し、床に膝をつくと両手で顔を覆ってしまう。
「う、わ、私には出来ません……っ!」
 めそめそと泣き出したジェレミアに、今まさに剣を抜いたゼロとルルーシュはぎょっとした。その後、二人して顔を見合わせて、またか、と溜め息をついた。
 ゼロを待機させたまま、ルルーシュが呆れながらジェレミアの元に近寄ると、ぎゅうと腰に抱きつかれて更に泣かれた。ジェレミアの頭を、ルルーシュはなだめるように仕方なく撫でる。
「いい加減慣れてくれないか? 本番でもこれだと困るんだが」
「む、無理です……うぅ」
 ぐすぐすと大の大人が嗚咽を漏らす姿に、ルルーシュは更に盛大な溜め息をついた。腰に回された腕は、一向に緩められる気配がない。
「はぁ……スザク」
「構わないよ。ジェレミア卿のこと、よろしくね」
 言外に延期だ、と告げるルルーシュの名前の呼び方に、スザクは苦笑いした。
 気持ちが分かるだけに、ゼロの仮面を取り外したスザクはジェレミアを見て小さく微笑する。ゼロレクイエムを確実に完成させるための練習ですら泣き出してしまう彼が、少し羨ましかった。
 ゼロレクイエム、それは皇帝ルルーシュが死ぬことで完成する。手を下すのはゼロとして生きることになるスザクだ。スザク自身、ルルーシュを殺すことが悲しくないと言ったら嘘になる。だが、二人で決意をしたその日から気持ちが揺らがないようにしてきた。それが、二人で交わした約束だったからだ。
 スザクはふと自身の手のひらを見つめた。小刻みに震えていることに、目を見開いて驚いた。この震えは、今だけのものにしなければならない。きつく拳を握り締めた後、スザクは踵を返した。
「ほら、もう泣き止め。部屋に行くぞ」
 スザクを視線で見送ったルルーシュは、ジェレミアに声をかける。ジェレミアはちら、とルルーシュの顔を見て再度泣き出しそうになったが、どうにか唇を噛み締めて涙を堪えた。
「……は、はい」
 涙を手の甲で拭って了承を告げると、ジェレミアは立ち上がってルルーシュを抱えあげた。
「ジェレミア!?」
「申し訳ありません。ですが、殿下と……離れたくないのです……」
 ぎゅうとルルーシュを抱く手に力を込めながら、ジェレミアは答える。ルルーシュは驚いた顔をした後、気を抜いたら溢れ出しそうな感情を隠すようにジェレミアの首に腕を回した。
「……今だけだからな」
「Yes, Your Majesty」
 ぼそっと耳元で言われた言葉に、ジェレミアは心底嬉しそうな顔で頷いた。

 ルルーシュの私室に着くと、ジェレミアはそっと主君を腕から降ろす。今まで感じていた重みがなくなったため、どこか名残惜しさすら覚えた。こうやって、ルルーシュを腕に抱くのもあと何度になるのだろう。
 ふと湧いて出た疑問は、鋭い痛みとなってジェレミアの胸を突き刺す。ルルーシュがいなくなるなどということは、ジェレミアにとって考えられないことだった。考えてはいけないし、考える必要もない。ルルーシュはジェレミアにとっての絶対であり、ルルーシュがいなければジェレミアの存在する意味もなくなる。ルルーシュに捧げるべき忠義はどこに向かえばいい。
 だが、ゼロレクイエムが完遂された時、ルルーシュは死ぬ。
 それはジェレミアにとっての恐怖だった。その事実を考えれば考えるほど、体の奥底が冷えて思考が停止する。その先を知りたいとも思わないし、ルルーシュのいない世界を想像したいとも思わなかった。
「主君を目の前に呆けているとはいい度胸だな、ジェレミア卿?」
 からかうような声に、ジェレミアの意識は浮上する。気づけば、ルルーシュは既にソファーに座って、立ち尽くすジェレミアを見つめていた。
「も、申し訳ありません!」
「そんなに俺の死を考えるのは楽しいか?」
 その言葉に、気づいていたのかとジェレミアは目を見開く。
 ぎゅ、と手を握るとルルーシュから視線を逸らし、搾り出すように告げた。
「楽しいわけが……ありません……」
「なら、考えなければいいだけの話だろう」
 そんなことが出来たらとうにしている。
 突いて出そうになった言葉をジェレミアは飲み込み、唇を噛む。ルルーシュは何でもないことのように言うが、ジェレミアにとってそれは瑣末なことではない。
 何度進言してもルルーシュはゼロレクイエムを変える気がなく、ジェレミアだけが一人焦燥を感じていた。
「ジェレミア」
 ルルーシュはそんなジェレミアの気持ちを知っているのか知らないのか、常と変わらぬ態度のままだった。ソファーの横を軽く叩き、名を呼んで座るよう促す。
 ジェレミアは一度息を吐くと、ルルーシュの元へ近づきそっとソファーに腰を下ろす。
 今、隣にはルルーシュがいる。だが、ゼロレクイエムを迎えた後はいなくなる。たったそれだけの違い。たったそれだけ、そう思えたらどれだけ良いのだろうか。
 眉間に皺を寄せながらぐるぐると同じ思考の繰り返しをしていたら、ぐいっと顔を両手で挟まれてルルーシュへと向けられた。急な行動に驚いて目を閉じずにいると、ルルーシュの顔が間近に迫る。そして、そのまま唇に押し当てられる感触があった。ふわりとルルーシュの匂いがジェレミアの鼻腔をくすぐる。
 口付けられたのだ、とジェレミアが理解した時には既に唇は離れていってしまった。
「考えるな、と俺は言わなかったか? ……まあ、なんだ。色々したいかもしれないが、眠い。少し寝る」
 不機嫌そうにジェレミアの頬をぐいっと軽く引っ張った後、ルルーシュは横になる。勿論、ジェレミアの膝に頭を乗せた状態だ。
「る、ルルーシュさま! お休みになられるのでしたら、このような場所ではなくベッドに……」
「お前が枕代わりになればいい。……おやすみ」
 言うだけ言って、ルルーシュは目を閉じた。本当に寝る気なのだと分かり、ジェレミアは仕方なく受け入れる。
 大分疲れが溜まっていたのか、暫くするとルルーシュの寝息が耳に届く。そっと髪を撫でてルルーシュの寝顔をジェレミアは見つめた。張り詰めた空気を纏わぬ幼い表情に、まだ彼は18歳の少年なのだとジェレミアは再認識する。たった、18歳。多くのことを背負うには、あまりにも惨すぎる年齢だ。そして、ルルーシュはその生涯を終えようとしている。
 ゼロレクイエムで世界の憎悪を背負って死ぬことが、今まで多くを撃ち続けたルルーシュの撃たれる覚悟なのだとしても、それでも。
 ただ、生きて欲しかった。
 その願いはジェレミアの内に在り続けたものだった。気づけばあまりにも簡単なことだ。ルルーシュに生きて欲しい。死なないで欲しい。置いていかないで欲しい。
 それはとても純粋で、残酷な選択だった。
 ジェレミアの心は、決まった。ルルーシュを起こさないように自身の膝から頭を持ち上げると、柔らかなクッションへと寝かせる。再度、一度だけルルーシュの髪を優しく撫でた後、足音を忍ばせて私室から退出する。
 そして、ジェレミアは一人の少女を探した。彼女だけが主君を死から救う術を持っているはずだった。だが、それは禁忌の力でもある。
 本当にそれでいいのだろうか。
 躊躇いがじわりと滲む心を深く押し込めて、ジェレミアは足を進める。暫く探し回った後、ようやく視界に緑の髪を捉えた。
「C.C.……陛下のことで話がある」
 真剣な面持ちで口を開いたジェレミアに対し、魔女は全てを知っているかのような表情で振り向いた。

 ゼロの剣に皇帝ルルーシュの体は貫かれた。多量に溢れ出る血。転がり落ちる体。
 ジェレミアはそんな主君の姿に胸を締め付けられはしたが、泣き出しはしなかった。ジェレミアとC.C.だけが知っている真実が、涙を流す必要はないのだと告げていたからだ。だが、C.C.だけは涙した。自らの選択とこれからの彼を想い、静かに涙を流した。
 撤退命令を出すと共にルルーシュの“遺体”を回収したジェレミアとC.C.は待ち続けた。日本から離れた地の新たな屋敷。その一室にある柔らかなベッドの上に冷たい体を横たわらせ、血の気の失せた主君の顔を椅子に座って眺め続ける。
 ルルーシュの瞳が閉じた世界は、真っ暗な闇の底のようだ。導いてくれる光は、未だ閉ざされたままだった。ジェレミアはその瞳が開かれることを待ち侘びた。時間にしてみたらきっと驚くほど短いのだろう。だが、ジェレミアにとってはまるで永遠のようにすら感じられた。ただ、じっと待った。耳をそばだてた。呼吸すら押し殺して、祈った。
 そして、一筋の光が差し込んだ。
「……地獄というのは、案外心地良いものだな……」
 鼓膜を震わす音は、ジェレミアが待ち焦がれた響きだった。少し掠れた声だが、間違うはずがない。
「……そうは思わないか、ジェレミア、C.C.」
 ゆっくりと首を二人に向けて問いかける視線に、知らずジェレミアの頬を涙が伝う。瞳に映る彼の色は愛してやまない紫だった。
「ルルーシュ、さま……っ」
「死に損なったみたいだな、俺は……」
 涙を流す臣下と、契約を交わした魔女。その二人と周りの様子を眺めて、ルルーシュは細く息を吐き現実を悟る。自身が生きているということは、可能性はひとつしかない。
 部屋の隅にいたC.C.はそっと立ち上がると、ルルーシュに近づき指先で彼の額に触れた。どこか優しい手つきでルルーシュに刻まれた赤の紋章をなぞる。今まで自身に在った紋章は、既にない。なぜなら、C.C.のコードはルルーシュに渡ったからだ。継がせた、というのが正しいのかもしれない。ルルーシュとスザクにもこの計画は知らせなかった。全ては、ジェレミアとC.C.の独断だ。
「契約を履行してもらうぞ、ルルーシュ」
「……どうやら、そうみたいだな。一人で死ぬのは許されないということか」
「ああ、そうだ。私は欲張りだからな。契約も約束も果たしてもらわなければ困る。……笑顔を、くれるのだろう?」
「お前の時が終わる前に……、必ず」
 まっすぐとC.C.を見据えてルルーシュが告げれば、緩くC.C.は微笑む。そして、触れていた指先を離すと、くるりと背を向けた。
「……すまない」
 C.C.は小さな声を残し、そのまま振り返らず部屋から出て行った。閉じられた扉の音が、ルルーシュに現実感を伴って響く。
 コードを移すと決めたC.C.の気持ちはどのようなものだったのか。
 酷い選択を我ながらさせたものだ、とルルーシュは自嘲気味に唇を持ち上げる。そして、未だ泣き続ける臣下にゆっくりと手を伸ばした。
「る、ルルーシュさまっ、……申し訳、ありません。もうしわけ……っ」
 ジェレミアは何度も何度もルルーシュに謝り続けた。今までルルーシュが目覚める前まではコードを移すことが最善なのだと信じ続けた。信じなければ生きていけなかった。だが、目覚めたルルーシュの額に刻まれた不死の証を見たときに、気づいてしまった。出来ることなら、ずっと気づかなければ良かった。
 死より残酷なことを主君に望んでしまったのだという事実を。
「私がC.C.に頼んだのです。わ、私が、私が全て悪いのです……っ」
「……そうだとしても、俺はまたこうやってお前や、C.C.に会えた」
 ルルーシュはジェレミアの頬を撫で、自嘲ではない、ジェレミアへ向けた微笑を浮かべる。触れる涙や、体温。それを感じられるのは、生きているからだ。その生にこれから縛られるのだとしても、ジェレミアやC.C.を恨んだり憎む気になどなれなかった。
「ジェレミア、そんなに泣くと腫れるぞ」
 呆れるようにルルーシュは指先でジェレミアの目尻をそっと拭う。ジェレミアはルルーシュの手に恐る恐る触れ、感触を確かめる。あたたかい、生きている。
 込み上げる様々な感情に耐え切れず、ジェレミアはルルーシュの手を額に押し当てると嗚咽を漏らした。
「……すまなかったな、ありがとう」
 ぽつりと零された言葉に、ジェレミアは首を左右に振って、ただ主の手をしっかりと握り続けた。
「なんだか俺はいつもお前を泣かせている気がするな。……俺は、お前にも笑顔でいてほしいんだが」
 泣き続けるジェレミアを見つめていたルルーシュは、どこか困ったように眉根を寄せる。ジェレミアは主の願いに応えるべく、放っておいたらいつまでも止まりそうにない涙を堪える。
 そして、涙に濡れた顔のまま、ぎこちなく笑顔を見せた。その姿に、今度は逆にルルーシュが泣き出しそうな表情を浮かべた後、ゆっくりと微笑んだ。
 もう、涙は終わりだ。
2008/10/15
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