冷たいくちびる

「仮定の話だが、もし俺が人に在らざる者だとしたらお前はどうする?」
 唐突な質問に私は少々面食らう。殿下にしては意図の掴みづらい内容だ。意味のないことをする方ではないから、この質問にも何かしらの理由があるのだろう。だが、それにしても珍しい。
「殿下が何者で在ろうと私は殿下を信じておりますので、変わらずお仕えするまでです」
「……そうか」
 答えれば、殿下はまじまじと私を眺めた後、どこか安心したように呟いた。

 昔の話だ。
 帝立コルチェスター学院を出た私は、敬愛するマリアンヌ様とその御子であるルルーシュ様とナナリー様が住まわれるアリエス宮の警護に着任した。警護とは言ってもまだ学院を卒業したばかりの新米である私が重要な場所を任されるはずもなく、屋敷の外を見張るという代物だった。だが、任務のポジションなどは些細なものである。全うすべきは職務だ。背筋を正し、銃を構え、蟻の子一匹だとて見逃さん、という心持ちで私は任務についていた。
 春の暖かな日差しが柔らかに降り注ぎ、風は穏やかに頬を撫でていく。前に立つ樹木は大きく枝を伸ばし、風に吹かれるがまま葉を鳴らしていた。鳥のさえずりや羽ばたく姿、光を浴びて鮮やかに咲く花。空は青く澄み渡り、太陽の眩しさに私は緩く目を眇める。
 平和、という言葉がこれほどまでに似合う光景を私は初めて見た。そして、その平和の居場所にマリアンヌ様や御子息が住まわれているのだと思うと、一種の感動すら覚えた。この平和を守るために今の私が存在しているのだ。何という光栄だろう!
 私は一度目を瞑り、まだ見ぬ御子を思った。ルルーシュ様とナナリー様を拝見したことは一度もないが、聡明で素晴らしいお方に違いない。何せ、皇帝陛下とマリアンヌ様の御子だ。お二人は可愛らしいお方なのだろうか、それとも凛々しいお方なのだろうか。どちらにせよ、その方達の平和を乱すなど断じてあってはならない。そのためにも今の任務を完璧に遂行するのが我が使命。そう決意を新たにしたそのとき、
「君は、新しくきた人だよね?」
 聞こえてきた声に、私は瞬時に目を見開いた。閉じていたのはほんの一瞬のことだ。そうだというのに、どこからか現れた少年に私は驚いた。
 年の頃は十歳かそこらといったところだろう。上等な生地で作られた衣服に身を包んでいる姿は様になっている。そこからして良い所の子供だと知れた。
 足音はなかったはずだ。人の気配がしたのなら、即座に気づいている。だが、事実少年は目の前にいる。何たる失態だろうか! 蟻の子一匹などと言っておきながら人の子を見逃すなどジェレミア・ゴットバルト一生の不覚……。警護の最中に一瞬だとしても目を瞑るなど愚の骨頂、瞬きすらすべきではなかったというのに、私は何という愚か者だろうか。このような失態を犯した私にはもう警護をする資格などない。いや、最初から私では力不足だったのだ。
「ねえ、僕の話聞こえてる?」
「……あ、ああ。すまなかった」
 どこか不機嫌そうな響きを持った少年の言葉に私は意識を浮上させる。そうだ、今は自責の念に捕らわれている場合ではない。これが最後の任務になろうとも職務を放棄するなど以ての外だ!
 少年に返答すれば、彼は満足げに私を見上げてきた。気が動転していたために気づかなかったが、少年の容姿は今まで見てきた中でも一際整っていた。太陽の光にきらめく黒髪と輝くような紫の瞳が特徴的な彼は、まだ幼さを残す顔立ちのためか愛らしいと言うべきが似合っていた。
 アリエス宮に立ち入ることが出来る時点で、少年はそれなりの貴族の子だろう。なかなかに広いため、道に迷ってこのような人通りのあまりない場所へと辿り着いてしまったのかもしれない。私自身、以前下見へきた時には迷いそうになったものだ。
「少年、君の名前は? ここへは誰に連れられてきたのだ?」
「人に名前を訊ねるときは、まず自分から名乗るのが礼儀じゃないのかな」
 少年と目線が合うよう地に膝をついて問えば、挑むように返され私ははっと気づかされる。まさに少年の言う通りだ。
「私はジェレミア・ゴットバルト。本日付でアリエス宮の警護に着任した者だ。……そうだな、君の言う通りだ。まず私から名乗るべきだった、すまない」
 謝ると、少年は驚いたように私の顔を見つめてきた。あまりにも真っ直ぐな視線のため、ほんの少しではあるものの何だか居心地が悪い。
 暫くしてようやく少年が視線を落とした時、私は内心ほっとしてしまった。彼の瞳に見られるとどうも落ち着かない。
「……君は真面目で素直な人なんだね。試すようなことをして……ごめんなさい」
「いや、君が言ったことは正しいのだから謝る必要はない」
 しおらしい少年の姿に、彼こそ素直な良い子ではないかと思ったその後、私にとってそれはもう巨大な爆弾が落とされた。
「僕の名前はルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。さっきの質問だけど、ここは僕とマリアンヌ母様、それに妹のナナリーが住む家だから誰かに連れられてきたわけじゃないよ」
 ……今、彼は何と言った? さらりと告げられた言葉の中に、とてつもなく重大な事実が混ぜられていたような気がする。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア……。ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアだと!?
「る、るる、ルルーシュ様!?」
「そんなにびっくりしてどうしたの、ジェレミア卿?」
 な、何ということだ! まさかこの少年、いやこのお方がルルーシュ様で在られたとは!
 アリエス宮にいる少年なのだから、ルルーシュ様である可能性が高いものと何故今の今まで気づきもしなかったのだろう。ルルーシュ様に出会ってからしてきた私の対応を思い出すだけで、あまりのことにだらだらと冷や汗が出てくる。君、やら少年、その他色々と不敬どころではない言葉遣いや態度に目の前が暗くなってきた。
 何度命を捧げたら私の犯した罪は償えるのか。いや、私のちっぽけな命などどれだけあっても無意味だろう。ほとんど塵に等しいようなものだ。だが、死が訪れる前にルルーシュ様に出会え、こうして会話を交わすことが出来た事実は神に感謝しよう。これまで神を信じたことなど一度もないが、今なら神はいたのだと信じよう。
「……ジェレミア卿」
「はい! 何でしょうか!」
 一人でどん底に落ちていた私の耳にルルーシュ様の声が届き、瞬時に思考を切り替えた。
「僕は今日という日に誓おう。僕が17歳を迎えたら、貴公を僕の騎士にすると」
「Yes, Your Highness! ……はっ、いや、わ、私がですか!? そのようなお戯れはおよしください殿下……」
 一瞬言われた言葉に高揚しそうになったが危ないところだった。私が殿下の騎士になるなどありえない。今会ったばかりの部下を任命されるなど、単にからかっておられるのだ。
 専属騎士とは皇族の方の盾となり剣として、その傍に寄る唯一の存在だ。そのような重要なものに、私がなれるとは到底思えなかった。実際、ナイトオブラウンズや騎士を目指して日々邁進してはいるものの、まだまだ実力が足りないことは私自身知っている。騎士になると言われても、今の私にはただの夢物語だ。
「大丈夫、君なら騎士になれるよ。それに、僕は君に騎士となってほしいんだ。……凄……匂い……ね」
 私の心の内を見透かすかのようににっこりと告げたルルーシュ様は、とても可愛らしかった。瞳を閉ざす直前、一瞬紫のはずの瞳が赤く染まったような気がしたが、何かの見間違いだろう。それに気をとられたせいか、何事か匂いという単語を呟かれた気がしたが残念ながら聞き逃してしまった。あれは一体何だったのだろうか?

 殿下と初めて会ったのは、今日と同じような澄み渡る青空が広がる暖かな日だった。部屋の窓越しに見える外では、太陽の光が燦々と降り注いでいる。
 あの出会いから何故か私は殿下に気に入られ、いつの間にか外の警備から屋敷の中、殿下の部屋の前、果てには殿下付きの警護に任じられた。この異動には殿下が一枚噛まれているのだろうと理解は出来たが、理由は分からなかった。私自身、何が殿下のお気に召したのかが分からなかったのだから、端から見たら更に分からなかっただろう。
「どうした、口元が緩んでるぞ?」
 からかうような口調で指摘され、私は慌てて緩んだ唇を引き結び、顔を上げる。視線の先には我が主君である殿下――ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア様――が向かいのソファーに座り、楽しげに微笑んでいた。幼かった日々は既に遠く、目の前には健やかに麗しくご成長なされた殿下の姿があった。艶やかな黒髪に輝くような紫の瞳はあの頃とひとつも変わっていない。
「式典はどうだった? 疲れたか」
 殿下は正装が些か窮屈だったのか、首元を緩めながら私に訊ねられる。
「そうですね、少しばかり緊張致しました」
「珍しいな。お前はそれ程物怖じしないタイプだろう?」
 本当に珍しいとばかりに殿下は仰るが、私にだって緊張することはある。なんせ、先程まで殿下の騎士となる叙任式を行っていたのだ。
 式の挨拶を終えた殿下は「疲れた」と一言零し、早々に会場から撤退されてしまった。「これは戦略的撤退だ」とは殿下の弁だ。引きずるように腕をとられた私もなし崩し的に殿下の自室に連れてこられた。式のメインであるはずの人物がこんなにあっさりと戻ってしまって良いのかと心配になったが、殿下が「後は兄上や姉上が何とかしてくれるだろう」と仰ったので大丈夫なのだと信じたい。……後が少し怖い気もするが、今は忘れることにした。
 昔、殿下に騎士になれと言われたことがある。だが、それがまさか本当に現実のものになるとは誰が思っただろうか。一月ほど前にいきなりその話を再度聞いたときは我が耳を疑ったものだ。あまりのことに信じられなかった私の頬を殿下が抓られ、「痛いだろう?」と仰られたのは記憶に新しい。思い出しても少し痛い。
 あの幼い頃の殿下のお言葉は戯れなどではなかった。それは、心の中で私が待ち望んでいたものでもあった。殿下と出会い、今のこの時までもずっと殿下のお傍で生きてきた。殿下の傍にあることが私の生きる意味となっていた。騎士に任じられたことは、晴れて新たに殿下のお傍で生きることが許されたのだと、私はそう思った。私は、殿下の元にいても良いのだと。
「……お前に話さないといけないことがある」
 思考の縁から私を掬い出されるのはいつも殿下だ。だが、何かがいつもとは違っていた。どこか歯切れの悪い口調で一度視線を落とされた殿下は、再度視線を上げると私を見据えられた。
「今から告げる事実をお前は受け入れられないかもしれない。嘘だと思うだろう。……だが、俺を信じて欲しい」
「私が殿下を信じないことなどありえません。私は殿下の騎士です。私は殿下と共に在るのですから」
 告げると、殿下はじっと私を見つめられた後、安堵したように息を吐かれる。その表情に私は既視感を覚えた。あの顔は、以前にも……。
「俺達皇族の中には、人の血が必要な人間がいる。……俗に言う吸血鬼という奴だな」
 私が記憶の底を浚っている間に、殿下はまるで嘘のような真実を語り始めた。吸血鬼? 今、殿下は吸血鬼と仰られた?
 殿下が嘘ではないと言ったのだから本当なのだろう。だが、まさか、と思っている私もいる。これはまた私をからかっているのではないか。そう考えてみるも、殿下の眼差しは真剣そのものだった。
 固唾を呑む私の様子を、殿下は一度眺められた後ゆっくりと口を開いた。
「大体17歳か18歳になった頃に俺たちは騎士を持ち、その騎士から血を貰っている。幼少時はあまり血を必要としないんだが、成長するにつれて血がないと飢えを感じるように俺たちはなっているらしい。ああ、毎日必要というわけではないから安心しろ。一月に一、二度あれば十分だ。食生活は人と何ら変わりはしない。太陽の光や十字架、ニンニクなども平気だ。ただ、酸素がなければ人が生きていけないように、俺たちは人の血がなければ生きていけないんだ」
 殿下によって一気に告げられた事実を簡単にまとめてみると、殿下は血が必要な方であり、その血は騎士となった私が差し上げるということか。ある意味輸血のようなものか?
 私の血が殿下に必要だと言うのならば、喜んでこの身を差し出そう。殿下の為になることを私が出来るというのだから、これほどまでに光栄なことはない。
 案外あっさりと納得してしまった自身に、私は少し驚いた。もっと何かしら違った反応をするのが普通なのかもしれないが、殿下が人とは少し違う存在だとしても殿下は殿下である。私が仕えるのは、ただ一人。ルルーシュ様しかいないのだから。
「本来ならば、この事実は叙任式を行う前に言わなければならない。……お前がこんな俺の騎士になってくれるのかが心配だった。怖かった。初めて会った時からずっと俺の騎士にお前がなって欲しかった」
「……でん、か」
 弱気を見せる殿下の姿に、私は思わず言葉がつかえてしまった。殿下が私のことを想って下さった。悩んでくださった。あまりの事実に胸が詰まる。
 私は、私の忠誠を殿下に信じて欲しかった。悩まれる必要などないのだと、知って欲しかった。
 私は知らず立ち上がると、床に膝をつけて頭を垂れていた。
「私が殿下の騎士を拒むことなどありません。我が血が殿下の為になるのでしたら、喜んで捧げましょう。殿下は殿下です。私がお慕いし、仕えるのは他ならぬ殿下お一人です。ですから、そのように私などのことでお悩みにならないでください。私は、殿下が私を騎士にと望まれたことを誇りには思っても、後悔など断じていたしません」
 思いのたけを偽りなくあるがままに言えば、暫しの沈黙の後、殿下が立ち上がられた雰囲気を感じ取る。そのまま足音が近づいたかと思うと、そっと顎をとられて顔を上げさせられる。
「……お前なら、そう言ってくれると思っていたよ。……ありがとう、ジェレミア」
 殿下は自ら私と同じように膝をつき、はにかむように微笑まれた。今までのどのときよりも、その姿は美しかった。
 殿下はそのまま指を滑らせ、私の襟元を辿った。血を、望まれているのだ。
「大丈夫、痛みはないはずだ」
 そう言って、殿下の瞳が赤く染まる。そうだ、これだ。殿下と初めて出会ったあのときも、今のように瞳の色が変わっていた。じっとその瞳に見つめられていると、私は頭の芯がぼうっとしてくる。ただ、殿下に全てを任せればいい。どうしてだか分からないが、そのような気分になった。
 殿下の指先は私の襟元を簡単にくつろげると、首筋を露わにさせる。殿下の顔が、私の首元へと寄せられた。
「……お前の匂いは、昔と変わらないな。俺は好きだがな」
 耳の傍で告げられたその言葉に思い当たることがあった。今になれば分かる。幼い殿下に言われた時には気づかなかったが、私の匂いのことを言っていたのだろう。正直私には自身がどのような匂いなのか皆目検討もつかないが、殿下が好まれるのだから悪くはないのだろう。
 ふつりと、痛みが一瞬走る。咬まれたのだ、と気づいたときには既に痛みはなかった。軽い酩酊感とともに思考が緩く解けていくような心地がした。どこか自身の存在が、流れ出す血と共に遠ざかっていくような奇妙な感覚に襲われ、私は目の前の殿下に縋った。手のひらに感じられた細い肩と、首筋に押し当てられた冷たい唇の感触だけが私に現実を悟らせる。殿下は本当に血を必要とされる方であり、私が任命された意味を。
 胸に湧き上がる感情の意味を、私はまだ知らない。

 こうして私は、殿下の騎士となった。
2008/12/30
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