キミの名前

「僕の名前は望月綾時。よろしくね」
 にこりと笑って綾時が挨拶をすれば、教室はざわめいた。新たな転校生の出現に、女子は友人同士で彼についての評価を述べあっている。頬を赤く染めた姿は、綾時にとっては何度も見た光景だ。
 ……何度も?
 何かが小さく引っ掛かる。けれど、そのことを考えてみると気持ちの悪い不安が胸にじわりと染み込んだ。それは触れてはいけないことのようで綾時はその不安を気にしないことにした。忘れようと思ってみるだけで、不安はすぐに薄れていく。
 安堵して小さく息を吐き、綾時はぐるりと視線を巡らせた。なかなかこのクラスは女子のレベルが高いらしい。後で声をかけなければ、とどこか使命感のようなものを持ちながらクラス中を見回した、丁度真ん中の席。金髪が一際目立つ可愛い少女が目に入り、視線を止める。けれど、それよりも酷く目を惹きつけた存在がいた。
 その隣に座る、頬杖をつきながら目を伏せた少年。別段特に変わったところがあるわけではない。それなのに、何故か目が離せない。隣で話しているはずの担任の声が耳に届かない。何かに期待してしまうような、そんな感情が溢れる。その綾時の視線に気づいたのか、少年は顔を上げた。
 灰色の目だ。
 目が合った瞬間彼に近づいてはいけないという思いと、彼に近づきたいという相反した思いが湧き上がる。言い表せない焦燥感に酷く胸が締め付けられ、無意識に綾時は胸元のシャツを握り締めた。不思議そうに見つめる少年の目は、全てを見通してしまうような、そんな印象を受ける。この感情を見透かされたくない一心で、綾時は慌てていつものように微笑んだ。
「分からないこと、優しく教えてくれると嬉しいな」
 少年はゆっくりと瞬きをし、小さく口の端を上げたかと思うと視線を下ろした。その顔が酷く印象的で、綾時は席についた後も彼の表情を思い浮かべる。もしかしたら微笑んだのだろうか。そう思うと何故か嬉しく、綾時は顔がほころんだ。どうしてこんなに嬉しいのか綾時自身全くわからないけれど、それでもこの胸に残る不思議な感情が心地良かった。

 チャイムが鳴り、昼休みが訪れる。教科書を片付けていると、綾時はたちまちクラスの女子に囲まれてしまった。顔を上げれば、はにかむ少女達の笑顔が眩しい。
「ねえ。望月くんって、お弁当とか持ってきてる?」
「あ、そうか。今は昼食の時間なんだね。……あいにく、今日は持ってきてないんだ」
 そう答えると、嬉しそうに少女は再度口を開く。
「教室を出た階段を降りると、一階に売店があるの」
「良かったら、一緒についていこうか?」
 他の少女も次々と声をかけてくる。自分以外の誰かが話し始めれば、後に続くことが容易いのだろう。
 綾時は全て教科書を机の中にしまいこむと、彼女達ににこりと微笑んだ。
「ありがとう。皆優しいんだね。その気持ちだけで僕は嬉しいよ」
 やんわりと断りをいれれば、少女達は少し残念そうだったが、無理についていくことはやめたようだ。踏み込みすぎることを躊躇したのだろう。それに気づいた綾時はごめんね、と振り返ってまた声をかける。少女達は気にしないで、と口々に告げながら手を振って見送ってくれた。それを背にし、綾時は黄色いマフラーを揺らしながら教室を出る。いつもなら可愛い女の子の申し出を喜んで受け入れるはずなのに、何故かそれを断ってしまった。あの少年が微笑んだ時から調子が狂う。居心地の悪いような違和感。何にそんなものを感じるのか。
 悩みながら階段を降りると、すぐに先ほど教えられたとおりの売店が目に入る。そこは人だかりでいっぱいとなっており、さながら昼食における戦場とでも言ったところか。この中を掻い潜ることはあまりにも無謀である。もみくちゃにされて、よれよれになることは間違いないだろう。想像しただけでもあまり嬉しくはない光景だ。
 足を止め何とは無しにその様子を見ていると、ある一点で目がとまる。
 あの朝の少年だ。彼も綾時と同じくこの人だかりの中待っているようで、ポケットに手をいれたまま佇んでいる。その姿を見たとたん、綾時は無意識に駆け寄り、少年の腕を掴んだ。
「……ん?」
 いきなり自身の腕を掴まれたことに少年は驚いたようだ。
「……あ、……望月、だっけ?」
 突然の綾時の行動に目を見張りながらも、少し自信がなさそうに綾時の名前を少年は口にした。
 彼が名前を覚えてくれていた。それだけで綾時は嬉しかった。初めて聞くはずの少年の声はどこか懐かしく、胸の奥が熱くなる。
「……大丈夫?」
 腕を掴んだまま何も言わない綾時に、少年は困惑した声音で尋ねた。
「え? ……あ、ご、ごめん!」
 綾時はようやく自分が何をしたのかに気づき、慌てて掴んだままの手を離す。
 いきなり腕を掴まれて彼は気を悪くしなかっただろうか。ただそれだけが気になって、自分の行動の愚かさに綾時は頭を抱えたくなった。どうしてか彼に嫌われることはしたくなかったのだ。
「ん、別にいいけど。……ところで、何か僕に用?」
 綾時は彼の言葉に、はたと気づく。用事だとかそういったものは何も考えてなかった。ただ、彼が視界に入った時、勝手に体が動いてしまった。
「……ええと。……その……」
 しどろもどろになりながら何を言おうか考えている綾時に、少年は何か気づいたようだ。
「もしかして売店?」
「え、ああ、うん! そ、そうなんだ!」
 売店のことなんて綾時の頭からはとっくに吹っ飛んでいたのだが、彼の言葉に力強く頷いてみせる。そんな風に先ほどからずっと慌てたままの綾時の姿に、少年は小さく笑った。その顔を見て、綾時はどきりと心臓が跳ねる。彼の笑顔を見ると自分は戸惑ってしまうらしいと綾時は思った。けれど、少年はそんな綾時には気づいていないようだ。一人であたふたしていることが恥ずかしい。
「あ、今なら買いに行けるよ」
「え?」
 少年が指差した売店は、いつの間にか周りにいたはずの人達が先ほどより少なくなっている。それでもまだ人は多いといえる状態であるが、どうにか売店へと辿り着けそうだ。
「ほら、行くんだろ?」
 少年は綾時の背中を軽く叩いて促した。綾時は頷いて、先に行く彼の背を追いかける。彼が、自分と一緒にいることを許してくれているような気がして、綾時はただ嬉しかった。

 人を掻き分けようやく辿り着いた売店は、売り物が随分減っていた。やはり早く来ないと売り切れてしまうのだろう。まばらに残っているパンのどれを選ぼうか綾時が悩んでいると、カツサンドが丁度一つ残っていた。これにしようと思い綾時が掴んだ瞬間、横から別の手が同時にそれを掴んだ。
「え?」
「……あ」
 横にいるのは彼しかいない。二人は同時に顔を見合わせる。カツサンドは互いに掴んで放さないままだ。
「ねえ、ここは僕に譲ってくれないかな?」
「……僕が先にそれを取ったはずだ」
「そんなことないよ! 僕が先に掴んだよ。ほら、よく見てみなよ」
「僕のほうが先だ」
 互いに譲らない不毛な言い合いが続く。売店の前でパン一つ言い争ってる姿はいやに目立つ。他の生徒達の視線が痛い。
「だって、君そんなに別のパンがあるじゃないか。一つぐらい僕に譲ってよ」
 綾時の指摘に、図星を指されたようで少年は口ごもった。少年は他にも色々と別のパンを確保している。これを全部食べる気なのかと目を疑うほどだ。見た目の割に意外と食べるらしい。
「……今回だけだ」
 そう言い、彼はしぶしぶながらも手を引いた。どうやら諦めてくれたらしい。
 綾時はようやくカツサンドを手に入れると、財布を捜す。ズボンのポケットから取り出そうとしてみるも、目当ての感触がない。
「あれ?」
 ぱたぱたとポケットというポケットを探してみても、見つからない。
「な、無い……!」
「……何が?」
「僕、財布を忘れてきちゃったみたいだ……」
「……じゃあこれは僕が戴くよ」
 少年はひょいと綾時が手に入れたはずのカツサンドを手に取る。そして、大量の別のパンと一緒に売店のおばさんに渡し、お金を払った。綾時はそれを見ながら、少し涙目になる。財布が無いことには何も買えない。誰かにお金を借りようにも、転校初日から借りるのもどうかと思う。
 少年が買い終わると、誰が言ったわけでもないが連れ立ってその場を後にする。とぼとぼと残念そうに階段を上がる綾時に、少年は声をかけた。
「……ほら、これお前の分」
「え?」
 少年はごそごそとパンを入れてもらった袋を漁ると、綾時に何かを手渡す。受け取ったそれを見れば、先ほどのカツサンドだ。
「昼食」
 彼のその言葉とパンを見つめて数秒、綾時はやっとその意図に気づく。
「い、いいよ! そんなの悪いよ!」
「……本当ならカツサンドはお前のだろ? あと、これも」
 そう言って、更にあげパンとやきそばパン、それにお茶まで綾時に渡す。
 少年のその行動に綾時はただ驚いた。カツサンドを買ったのは最初から自分に渡すためだったのか。彼が一人で食べてしまうものだとてっきり思っていた。
 そう思った自分が綾時は恥ずかしかった。そして彼のその気遣いが嬉しかった。特に、彼がくれた、というその事実が一番嬉しい。けれど、初めて会ったばかりの人間に甘えてしまうことを綾時は躊躇った。
「でも、やっぱり僕は貰えないよ」
 綾時が告げると、少年は小さく眉を顰める。
「こういう時はありがとう、って一言言えばいい。そのほうが僕も嬉しい」
「あ……、ありがとう」
 少年のその言葉に圧されて、綾時は戸惑いながらも礼を言う。
「ん、それでいい」
 先ほどの表情と一転、少年は満足したように微笑んだ。綾時もそれにつられてにこりと笑ってしまう。
「でも、本当にごめんね」
 手の平のパンを見つめながら綾時は謝った。少年はそれを横目に階段を上っていく。
「別にいいよ。三倍返ししてくれればいいから」
「え! 三倍なの!? それはちょっときつすぎない?」
 そのやりとりに少年はにやりと笑う。悪戯を思いついたようなその顔は少し幼く見えた。
「それぐらい当然だろ? まあ、別に返しても返さなくてもいいけど」
「ちゃんと返すよ。……本当にありがとう。その、よければ一緒に昼食食べても、……構わないかな?」
 綾時が思い切って言ったその言葉に少年は驚いたように目を向ける。
 やはり、いきなり過ぎただろうか。少年の反応が怖い。でも、彼ともう少し一緒にいたかった。折角仲良くなれたのに、別れるのが寂しかった。
「何心配してるんだよ。いいに決まってる。……でも、本当に僕と?」
 小さく頭を小突かれて綾時が顔を上げれば、どんな顔をしたらいいのかわからないみたいで、苦笑いのような表情を見せる彼がいた。
 綾時はその言葉に、ぱあっと満面の笑みを浮かべた。
「君だから一緒に食べたかったんだよ」
「……そういうものなのか?」
「そういうものなの」
 初めてあったはずなのに、どこかお互いしっくりとくる。交し合う言葉や周りの空気がとても居心地がいい。
「なら、屋上にでも行こうか」
「あれ? 教室で食べないの?」
 少年のその言葉に綾時が不思議そうに首を傾げる。彼には友人がいたはずだが、一緒に食べないのだろうか。
「……今日は天気がいいから、屋上で食べたい気分なんだ」
 一拍置いた発言の意味に綾時は気づいた。もしかしたら、朝の金髪の女の子。アイギスという名前の少女が「あなたはダメであります」と言ったことと関係しているのだろう。そういえば、彼には近づくなとも言われた気がする。
 でもきっとその意図だけでなく、天気がいいことも彼の本音なのだろう。
「……ありがとう」
「気にしなくていい。あ、屋上はこっち」
 彼の優しさが嬉しくて、いつも以上に笑っているんだろうな、と綾時は心の隅で思った。こんなにも嬉しいのはいつ以来だろう。そんなに遠くない時に、同じような気分を味わったことがある気がする。
 そして屋上へと向かう階段を上りながら、ふと何か足りないものがある気がした。
「あ! そういえば僕、君の名前をまだ聞いてないよ!」
「……そう?」
「そうだよ!」
 綾時が意気込んで言えば、屋上のドアを開けて少年は振り返った。
 差し込む光が眩しい。彼が言った通り、本当に今日はいい天気だ。
「……なんだか、もう僕の名前を知っている気がしたから」
 彼は一人呟くと綾時へと目を合わせる。

「       」

 名前を告げた少年は、初めて会った時と同じように、口の端を上げ微笑んだ。
 綾時はやっと気づいた。きっとこれが、自分の違和感の原因なのだと。
 その笑顔に酷く胸がざわめくのは、何かを予感しているから。
2006/08/26
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