ボクを呼んで

 風が一陣吹き抜けた。それにされるがまま髪をなびかせ、少年は屋上から下を眺めていた。ここに来た当初は人の姿を多く見ることも出来たのだが、今ではもうまばらになっている。制服姿ではなく、ジャージ姿であったりと部活帰りの人たちだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考える。こんなに時間が経っていたとは全く気がつかなかった。思っていた以上に呆けていたらしい。
 近頃、こうやって無為に時間を過ごしてしまうことが多々ある。その原因を少年は知っていた。一週間以上も前の夜に消えていった幼い子どもの影響だろう。あの存在が別れを告げた時から、空虚な思いが胸を満たす。それが何なのか初めはわからなかった。
 けれど今になってやっとわかる。自身のなかで欠けていったものがあると認識する。寂しい、という言葉だけでは表せないこの感情は一体何だろう。抜け落ちてしまった心の一部は、未だ埋まることがない。埋めることも、きっと出来はしない。
 延々と続きそうなこの思考を断ち切ろうと、ゆっくりと少年は目を閉じた。今日の部活はさぼってしまった。後で同じ部員の宮元に何か言われるかもしれないが、その時になったら言い訳は考えよう。顔を出さなかった理由を、気分、の一言で片付けられたらどんなに楽だろうか。実際にそうなのだが、一応別の答えを用意しておこうと少年は考える。
 今日は部活に出る気にもなれず、かといってすぐに寮に戻る気にもなれなかった。どうしてか、一人になりたかった。その思いによってなのかは知らないが、自然と足は屋上へと向かっていた。そして今、ここにいる。
 小さく息を吐くと、少年は目を開けた。日が落ち始めてきたせいか、少し肌寒くなってきたかもしれない。寄りかかっていたフェンスもとっくに冷えきっている。指先も冷えてかじかむ。握り締めても、認識が浅い。
 これほどになるまで屋上に居続けた自身に、もう一度溜め息を少年はついた。顔を上げると、夕日によって赤く彩られた空が視界に広がる。全てが赤で染められているかと思えば、ところどころ青が塗られたままだ。互いに滲み、色が混ざり合っている。何かを悩むことが馬鹿らしく思えるほど、その色は鮮烈に少年の心に残った。その景色がやけに綺麗に見えるのは、どこか感傷的になっているからかもしれない。
 気持ちを切り替えるかのように大きく深呼吸をして、少年はくるりとその場から背を向けた。

 屋上からの階段を降りるたびに、一人分の足音が響いた。その音を出しているのは少年自身なのだが、一歩踏み出すたびに何となく奇妙な気分になる。音が少ないせいだろうか。人気の無くなった学校は、いつもとは違った面を少年に見させた。
 ちらりと廊下を覗き込んでも、誰もいない。昼間の様子と比べるとあまりにも寂しい印象だ。だからといって別に興味も湧かず、すぐにでも帰ろうと思った少年の目に何かが留まった。違和感の原因は、教室のドアだ。いつもならばきちんと閉められているはずのそれは、今日に限って半分開いている。他の教室を見ても、開けられているのは少年のクラスだけだ。
 誰かが閉め忘れたのだろうか。気にせず帰ればいいものを、何かが引っ掛かり少年はそちらへと近づいていく。
「……誰かいるのか?」
 ひょいとドアの隙間から少年は中を窺う。先ほど見た空と同じように赤く染まる教室がまず目に入った。夕日が差し込んでいるせいで、眩しい。
 何か変わった所はあるのだろうかと目を凝らせば、カーテンが頼りなさげに揺れている。窓が開いているらしい。他にあるとすれば、誰かが一人机に突っ伏しているようだ。
 少年はその人物を確かめに、教室へと足を踏み入れる。中にいる人物は、未だ少年に気づいてはいないようだ。ぴくりとも動かない。もしかして、寝ているのだろうか。ゆっくりと足音を立てぬように近づいていく。
 ――望月綾時。
 心の中で名前を唱えてみる。数える程度言葉を交わしたことはあるが、ただそれだけだ。アイギスに止められ、今までゆっくりと話したことはなかった。
 他人ではないだろうが、友人と言うには些か無理がある気がする関係。一クラスメイトと言うのが一番しっくりくるだろうか。望月が順平と仲が良いということと、アイギスからは激しく敵視されているというのは知っている。あとは、女生徒に人気が高いことくらいだろう。
 あまり望月という存在を知らなかったことに、少年は今気づいた。気にはなっていたのだが話す機会を見つけられなかったせいで、望月を深く知らないまま過ごしていた。不思議と望月が気になる理由は、重ねているからかもしれない。誰を、などと言う言葉は無意味だ。また屋上での思考を引きずり出しそうになり、少年は自制した。
 望月はというと、遠目にも目立つ黄色のマフラーを巻いたままぐっすりと寝ている。夕日のせいでその色は橙色に染め変えられていた。今までずっと寝ていたのだろうか。一定のリズムで呼吸をし、少年がいることも知らず眠り続けている。
 もう一歩近づいたところで、望月が小さく身じろぎをした。少年は驚いて、足を止める。息を殺して望月へと視線を注ぐと、起きたわけではなく寒さのために身を震わせただけのようだ。そういえば寒い気もする。ずっと外にいたせいで、感覚が麻痺していたらしい。望月は上着も着ていないため、余計に寒いのだろう。
 ちらりと視線を寒さの元凶へと向ける。風が今もなお入り込んでいるのは一つだけ開け放たれた窓のせいだ。寝るのなら、窓を閉めてから寝ればいいだろうに。
 そんなことを思い、少年は微かに笑うと望月の側から離れ、一旦窓に歩み寄った。開いたままのそれに手をかけ、きっちりと閉める。そして鍵をかけて、どうせだからとカーテンもまとめて端に寄せておく。教室内は、更に夕日が差し込み赤に染まった。目を細めてしまうほどの眩しさなのに、望月は全く起きない。図太い神経をしている。
 呆れて息を吐き、少年はもう一度望月の傍へと近づいた。寝ている机の正面へと立ち、組んだ両腕の間に顔を埋めている姿を見下ろす。
「風邪ひくぞ」
 言葉と共に、少年は望月の頭を指でつついてみる。
「ん……」
 反応はあるが、まだ夢の中にでもいるのだろう。もぞりと頭の位置を眠りながらも望月は変えた。その行動で、今まで見えなかった左目の辺りが少年の瞳に映る。その下にあるものも。
「……似てる」
 知らず言葉が漏れる。望月を視界に収めるたびに既視感を覚えた。いつも思っていたのだ、似ていると。
 無意識に少年は望月に手を伸ばしていた。指先で左目の下、あの子どもと同じ位置にあるほくろへと微かに触れる。
「……ファル、ロス」
 少し掠れてしまった声で少年は名を呼んだ。望月ではなくその後ろでちらつく子どもの名を、呼んでしまった。だが、呼んだ後になって自分のしたことに気づき、少年はすぐにその指を離した。
 その瞬間、少年の手が急に掴まれた。驚きに見開いた目が青い瞳とぶつかる。
「ねえ、ファルロスって誰?」
 その言葉に、少年は動揺した。聞かれていたとは思わなかった。寝ていなかったのか。だとしたら、いつから起きていた。事態が呑み込めず混乱する少年に、望月は追い撃ちをかけるかのようになおも問いかける。
「日本人、の名前じゃないよね? 外国の人?」
「言う必要はないだろ。……手を、離せ」
「やだ。教えてくれたら離すよ」
「……っ、望月!」
 これが嫌がらせのためにしているのだとすれば、本気で殴ってでも逃げ出すのだが、望月はただ純粋に尋ねているらしい。揶揄などの感情が全く窺えない。
 だからこそ、その瞳を受け止めることが出来ない。何を答えればいいというのだ。少年は唇を噛み締め、逃げるように俯いてしまった。望月を、見ることが出来ない。
 これほどまでに動揺した少年の姿を見たことがなくて、望月も戸惑ってしまう。勢いで掴んでしまった腕も、今離したらすぐさま逃げ出されそうで、緩めることが出来ない。少年を、困らせるつもりはなかったのに。
 重苦しい空気の中、先に動いたのは望月だった。がたりと音をさせて席を立ち、少年に一歩近づこうとして途中で止めてしまう。躊躇うように、そっと息が吐かれた。
「……僕とそのファルロスって人は、似ている、の?」
 その言葉にどう答えたら一番良いのかがわからなくて、少年は何も言えない。似ている、とでも言えばいいのだろうか。先ほど無意識に口に出した時と同じように。まさか。言えるわけがない。
 けれど、望月はそのことを聞き出したいわけではないようだ。
「無理に言わなくてもいいよ。……でも、これだけは君に知って欲しいんだ」
 そこで、一旦望月は言葉を止めた。ぎゅうと、少年の腕を掴んだ手に力を込める。
 少年はその行動に驚き、そしてようやくのろのろとだが顔を上げた。どんな顔をしたらいいのかわからないが、それでも今この時は、ちゃんと望月を見なければならない気がした。
 少年が顔を上げてくれたことに望月は安堵したようで、小さく微笑みを浮かべる。
「僕は、望月綾時なんだ。君が見ている人と僕は、違うんだ」
 そして、望月は掴んだままの腕を解放した。
 はっきりと告げられた言葉が、少年の心を揺さぶった。こんなことを言わせてしまった望月に申し訳なく、そして自分自身に嫌気が差した。もしかしたら望月は気づいていたのかもしれない。ファルロスと重ねて見られていたというその事実に。
「……ごめん、望月。嫌な思い、させた……」
 今はそれだけしか言えず、何とももどかしかった。本来ならファルロスのことも含めて話し、そして謝るべきなのだろうが、まだそれは出来そうにない。いつかきちんと心の内で整理がついたら、望月に話したい。
 望月は少年に笑いかけ、緩く首を振った。
「嫌な思いなんてしていないし、君に謝らせるようなことじゃないよ。本当、気にしないで。あ、でもそんな風に苗字で呼ばれるほうが嫌かな。他人行儀すぎない? 綾時って、名前で君にも呼んで欲しいな」
「…………」
 どう対応していいかわからず、少年は固まってしまう。それを促すように、望月は更に笑みを深めた。
「ほら、綾時、って言ってみてよ」
「……りょ、うじ」
 申し訳なさと気恥ずかしさにつっかえながらも、どうにか名前を呼んでみる。その音を口にして、ようやく初めて望月を自身の中で認識出来たような気が少年はした。
 今まで望月を望月個人として見ていなかった。ファルロスの影を求めていた。けれど、望月とファルロスは全く違う存在だ。自分という存在を通されて他人を見ていたということに、望月は怒り、悲しむことはなかった。けれど、表面に出さずとも内心は傷ついているかもしれない。
 望月にとって酷い事をしてしまったと、少年は今更後悔する。
「……本当に、ごめん、な」
 言葉が勝手に少年から零れ出た。謝らないといけない気がした。望月に対してと、そしてファルロスに対して。
「へ? あ、ごめん! 君が名前を呼んでくれたことに感動しちゃって、ちょっと今意識が飛んだっていうか……!」
 折角の謝罪も望月の惚けた反応に肩透かしを食らう。気勢を削がれてしまい、少年は小さく溜め息を吐いた。けれど、望月のこの対応に安堵もした。いつも通り、振舞えばいいのだろうか。
 望月ともう一度目を合わせれば、不思議そうに見つめられた。何でもないと言うように、少年は苦笑してみせる。
「それほど、喜ぶものでもないだろ」
「そんなことないよ! 凄く嬉しい! 誰に名前を呼ばれた時よりも、何だか一番嬉しいかもしれない。こう胸にくるっていうか……!」
「……そこまで言われるのも、ちょっと嫌だな」
「でも本当なんだよ……! ひかないで、お願いだから!」
 望月の大げさな言い方と、その懸命さに少年は笑った。口元を緩め、纏う空気を和らげる。ようやく、望月と向き合えた気がした。向き合おうとしなかったのは、他でもなく自分自身。それも、今日で終わろう。
「ん、帰るか」
「それって、……一緒に?」
「お前以外でここに誰がいる? ほら、行こう。……綾時」
 少年は謝罪の言葉を途中で呑み込み、代わりに名前を呼んだ。何度謝ったとしても、綾時は喜ばない気がした。だから、その代わりに名前を呼ぼうと思った。他人でもなく、一クラスメイトでもなく、友人、として。
 綾時は一瞬驚いた顔をした後、すぐに嬉しそうな表情へと変わった。満面の笑みを浮かべたその姿は、喜びで溢れているとでも言えそうだ。
「あ、ありがとう!」
 その言葉の意味するものが何なのかは、わざわざ聞かなくてもいいだろう。尋ねなくても、もうわかっている。今なら、正面から綾時を見ることが出来る。
 代わりに口の端を上げて、少年は綾時に言葉を返した。
「……こちらこそ」

 教室を出て、半開きのままだったドアを最後まで閉める。寂しげに見えた廊下は、二人分の足音と明るい声を響かせた。
2006/11/27
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