キミの指先が掴むのは

(……ようやく終わった)
 少年は、目の前の書類を机の上で一つにまとめると綺麗に整えた。トントン、と軽く音を立てながら整理されたそれをどこか満足げに眺めると、一旦机の横に置く。そしてパイプ椅子が鳴るのも構わずに背中を反らし腕を伸ばした。ずっと座ったままの体勢で仕事をしていたためか、体が固まっている。それをほぐすように大きく伸びをして、盛大に溜め息を吐いた。
 次に使う生徒会の資料を生徒会長でもある桐条美鶴に頼まれて作成していたが、意外と時間がかかってしまった。本来ならもう一人生徒会役員が手伝いに入ってくれるはずだったのだが、そのことをすっかり忘れられたのか、はたまた故意になのかその人物は現れなかった。そして少年だけが一人、時間通りに生徒会室へと訪れる羽目になった。仕方なしに淡々と少年はその雑務を進めていったが、ひとつひとつホッチキスを止めたりと単純作業をこなしていくのは存外楽しいもので、気づいた時には完成された資料が山積みになっていた。結果として、全ての作業を終わらせていたのだ。
 少年が達成感に浸りながら椅子に座っていたら、廊下から足音が聞こえてきた。もしや、一緒に仕事をする相手が今頃気づいてやってきたのだろうか。全部終わった後に来られてもする事がないな、などとそんなことをぼんやりと考えながら、少年は閉められた扉のほうへと視線を向ける。
 擦りガラスの向こうに一瞬人影が映ったが、その人物は生徒会室の前では立ち止まらずに通り過ぎてしまった。残念ながら生徒会役員ではないらしい。ならば、教室内に何か忘れ物をして取りに来たのだろうか。案の定どこか別の教室の扉を開ける音が響く。だが、暫くしてその廊下にいる人物が生徒会室前へと戻ってきた。そして、何故か生徒会室前の扉でうろうろとし始める。影が映っているせいでその行動が少年からは丸見えだ。
 何か用でもあるのだろうか。少年が扉越しの人物を訝しんでいると、ガラリと音を立てて薄く扉が開かれた。
「えっと、誰かいますか……?」
 意を決したのか、そろそろと申し訳なさそうに声をかけてきた人物は、少年と同じクラスの望月綾時だった。ひょっこりと扉から現れた彼は、少年の姿を目に留めると、ぱっと嬉しそうな顔へと変わる。
「あっ、よかった! やっぱり生徒会室にいたんだ!」
「なんだ、廊下を不審者みたいにうろついていたのはお前だったのか」
「……ふ、不審者みたい、だなんて酷すぎる……」
 綾時は愚痴愚痴と文句を言いながらも、椅子に座ったままの少年へと近づいてくる。その様子を、少年は机に肩肘をつきながら眺めていた。
「で、何か用?」
 わざわざ自分を探すくらいだから特別重要なことでもあるのだろうと尋ねてみれば、綾時はきょとんと少年を見返す。
「え? 用事? 別にそういうわけじゃなくて……何だろう、なんとなく君に会えるような気がして探していたっていうか」
「……つまり、別に用事はないってこと?」
「あ、うん、そう! しいて言うなら君に会うのが用事かな」
 告げられた言葉に少年が呆れているのも気づかず、綾時はただにこにこと笑った。
 本当に、何を考えているのかわからない。いや、何も考えてないんじゃないか。そうか、望月綾時という存在は何も考えていないから望月綾時という存在なんだろう。そう無理やり自分の思考を結論づけながら、少年はまじまじと綾時の顔を見つめた。
 少年と同じく転校生としてやってきた綾時は帰国子女ということと、その性格と外見からか一躍学校の有名人である。クラス内でも、絶えず女生徒が周りにいるのでよく目立つ。綾時自身も女性が好きだと公言しており、その行動にも如実に女好きとしてのものが表れていた。他には順平とも仲が良く、二人して何か企んでいる姿などを何度か目にしたこともある。
 そして、何よりも少年にとって綾時という存在が重要なのは、何故か知らないが男同士にも関わらず少年と綾時は一応「付き合っている」という関係にあるということだった。始まりがなんだったのかすらもう今では曖昧で、自然とそういうことになった、というのが一番しっくりくるかもしれない。ただたまに、どうして自分はこんな奴を好きになったのだろう、と思わないこともない。だが、好きだ、と再認識すると恥ずかしさのあまり死にたくなってくる。穴があったら真っ先に飛び込んでいるところだ。
 けれど、自分は本当に綾時のことが好きなのだろうか。たびたびその疑問が、少年の心の内に生じることがあった。よく分からないが、分からないままでもいいかもしれない。別に現状に不満があるわけでもない。それでも感じるのは、綾時本人には絶対に言いたくないが、綾時の隣にいるのは至極落ち着いた。それが元のあるべき形のように思えたのだ。
 じっと綾時を見つめたまま少年がそんな思考をしていたら、綾時の顔が真っ赤になっていた。
「えっと、僕の顔に何かついてる……?」
 見られ続けていたのが恥ずかしかったのだろうか。綾時は照れたようにそう口にする。
 この顔が人気の秘密なのだろうかと、少年は更に綾時を凝視する。別段少年にとって特別格好良くは見えない。別に悪いとも思わないが。
「……お前って、格好良いのか?」
「……じっと見つめてくるかと思ったらいきなりだね。もう、どこからどう見ても格好良い望月綾時くんじゃない!」
「いや、全然」
「ひっ、ひどい……!」
 一連の会話を通して分かったことは、綾時のことを考えれば考えるほどその時間は無駄だということだ。無駄なことはしない主義の少年は、すぐさま綾時という存在を思考の外へと放り投げて帰り支度をし始めた。ショックを受けていた様子の綾時は放って置くことにする。
 当の綾時はというと、先ほど言われたことを気にしないことにしたのか、今度は机の上に置いてある少年が作った資料を見て、一人で騒いでいる。綾時も少年と同じく切り替えが早いようだ。
「わっ、これ君が作ったの!?」
「そうだけど」
 作業の際に出たゴミをゴミ箱に入れながら少年がそう返せば、綾時が尊敬の眼差しで見つめてきた。
「君って凄く器用なんだね……! 僕がやるとホッチキスがいっつも曲がるんだけど、どうしてかな?」
「さあ? もしかしたら性格が曲がってるからじゃないかな」
 綾時に対し、少年がどうでもいい、といった口調で返答すれば睨まれた。
「……ねえ、さっきから何か僕に恨みでもあるの……?」
「言ってみただけ」
 綾時に恨みがましげに見られるも、少年はただ肩を竦めて返すだけだった。
 下に置いてあった自分の鞄を取ろうと少年が腰を屈めた時、ゆらりと視界がぶれる。疲労が祟ったのだろうか。一瞬よろめきそうになった少年を、近くにいた綾時が慌てて支えに入る。
「だ、大丈夫!?」
「……悪い、ちょっとふらついただけだ」
 少年はそう言って綾時から離れると、先ほど取ろうとした鞄を手に取った。そして置いたままだった資料へと視線を向け、暫しの逡巡の後にそれはそのまま置いておくことにした。どうせ次回の役員会議の時に使うのだから問題ないだろう。生徒会室には毎回鍵もかけられている。誰かに盗まれるようなものでもない。
 綾時は、室内を見回し忘れ物などがないか確認している少年を眺めていたが、ふとあることに気づいた。少年の顔色が常に比べてやはり悪いように見える。綾時は少し考え込んだ後、何を思ったのかいきなり少年へと近づいた。
「ん? りょ……っ!」
 気配に気づいた少年が振り向けば、その目の前には綾時の顔があった。驚きに息を呑むと、唇に触れられるものがあった。綾時の唇だ。少年の頬に瞬時に赤みが差す。綾時は少年の唇を舌で少しばかり舐めると、触れただけのキスで満足したのか唇を離した。
 綾時が離れてすぐさま少年は手の甲で自身の口元を押さえる。まさかいきなり学校内でキスをされるとは思っていなかった。いくら人が周りにいないからといっても恥ずかしいものは恥ずかしい。
「なっ……、いきなり何っ……!」
 少年が綾時に今の行為を問いただそうとすると、綾時は何故だか不思議そうな顔をした。
「あれ? 何か分からなかった? じゃあもう一回」
 綾時は微笑むと、再度少年へと近づく。慌てて後ずさった少年だが、足元に椅子が当たり逃げられない。そして綾時に腕を掴まれ、引っ張られる。
「ん……っ!」
 今度は先ほどよりも深く、綾時と唇が合わさる。少年がぎゅうと目を瞑ると、綾時が喉の奥で笑う音が聞こえた。少年の閉じた唇の間を、綾時の舌先が割って入るように捻じ込まれる。歯列を辿るように舌は動き、少年は徐々に息苦しくなっていく。何度キスをされてもこれには慣れない。そして、綾時の唇が一旦離れたその時に、思わず口を開いてしまった。酸素を求めた少年のその行動こそ待っていたとでもいうように、綾時は再度少年に口付ける。更に奥へと舌を差し入れ、少年の舌を引きずり当てると絡め合わせた。
「っん、……ふっ……ぅ」
 舌を吸い上げられ、少年はびくりと体を震わせた。鼻にかかったような声を出してしまい、それが更に羞恥を煽る。
 綾時はそんな少年の口内を自身の舌で蹂躙していく。綾時のせいで段々と力が入らなくなってきた少年は、手から鞄を落としてしまった。ドサリと鞄の落ちる音がどこか遠くのことのように聞こえる。二人が漏らす水音がそれよりももっと間近で聞こえるからだ。
「も、やめっ……、りょ……じ……っ!」
 堪らず少年が音を上げれば、ようやく綾時は少年を解放した。荒く息をつく少年とは対照的にどこか綾時は涼しげだ。
 今何をやったか分かってるのかこいつ、と少年がきつく睨みつけても全く動じていない。それどころか、綾時の瞳には何か新たな思惑が宿っているように見受けられた。
「えっと……、ごめんね」
「あ、謝るくらいなら最初からするな! 馬鹿綾時!」
「うん、ごめんね。先に謝っとく」
「……は? って、ちょっ……待てっ!」
 制止の声にも関わらず、綾時は少年の首筋へと唇を寄せた。
2007/06/16
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