ささやかな安堵をキミに

 綾時が自らを宣告者だと明かしてから、二週間近くが経っていた。この頃にはS.E.E.S.である寮の面々も落ち着きを見せ始め、動揺を露にすることは少なくなっていた。普段と変わらず学校へ行き、普段のように振舞う。内心どうだかは分からないが、表面上は以前と変わらないように見える。
 それは、リーダーである少年にも当てはまることだった。彼も仲間と同じく綾時の発言を聞いた時は驚きが勝っていた。綾時の話を聞けば聞くほど訳が分からなくなっていった。けれど、何故だかすぐにその衝撃と言ったものは沈静化してしまった。少年は全てを受け入れた。なってしまうというのだから仕方がない。
 しかし、だからといって安穏とその日を迎えようとも思わなかった。ただみっともなく喚いて叫んで泣いて終わるだなんて到底出来やしない。
 どうせなら、少しはあがいてみようと思った。そんなことをしたって、綾時が言った通りに絶対に避けられない滅びとやらが訪れるかもしれない。それでも、変わる可能性がない、とは言い切れないんじゃないか。出来ることがあるなら、最善を尽くす。駄目だったなら、それはその時考える。やれることをしないでいるのは嫌だった。
 だから、今になってもタルタロスに挑み続けていた。仲間を連れて、たった0.1%の可能性すらないとしても、0.01%の可能性があるのならそれを諦めたくはない。
 仲間たちも初めのうちは終焉が来ると言うのにそんなことをしても無駄なのではないかと言っていた。ニュクスという存在を倒すことは絶対に不可能なものだとも綾時から伝えられていたからだ。あんなに綾時に脅されるかのようにみんな結局死ぬ存在なんだとか言われたら、そう思ってしまうのも無理はない。
 けれど、彼らは少年に半ば引きずられるようにタルタロスへと登ることによって、そんなことを考えなくなっていった。ただ無心になっていった。ひたすらシャドウ――自らの天敵とでも言える存在を駆逐することで、今まで過ごしていた日常を取り戻していったのだ。S.E.E.S.としてシャドウを倒すという日々を。
 それが良いことか悪いことかをはっきりと区別することは出来ない。けれど、彼らにとってそれは前者でありえた。内に恐怖があるというのなら、その恐怖を徹底して排除していけばいい。自身の手で恐怖の元凶とでも言える存在を血祭りにあげるのだから、それ以上の安堵といったらないだろう。それらのシャドウよりも強大で絶対的な存在が後に控えているとしても、目の前の敵を倒すことで幾ばくかの安らぎが得られる。それは精神の平穏にとても重要なものだった。
 まだ来ぬ終焉の影にびくびくと怯えているだけの時よりは余程マシなんじゃないか。
 自らも振るう剣にシャドウを串刺しにしながら、少年はそんなことを考えていた。手に残る感触には以前と全く変わったところなど見受けられない。昔と同じようにタルタロスへと繰り出す日々。
 変わったのは、彼らを取り巻く状況だけだった。


 少年は、自身のベッドに深く身を預けたまま深呼吸をした。今日はタルタロスへと向かわず、休息をとるようにとの指示を彼は皆に出していた。
 毎日闇雲にシャドウを狩り続けていては、無尽蔵にあるわけではない体力を消耗してしまう。彼らは今、ぎりぎりの危ういバランスで存在していた。神経をすり減らしながら戦っている状態だ。そういった理由と同時に、単純に少年自身も疲れていた。ほとんど毎日タルタロスに挑み続けていたせいで日を置いても疲労がとれていない。
 そんな体を少しでも休めようと早くにベッドへと潜り込んだはいいが、どうにも眠れなかった。いつもなら疲労があればすぐにでも眠りに落ちたのだが、やはり自身の中で何かしら不安があるせいで落ち着かないのかもしれない。じわじわと少年の心を侵食していく不安という名の怪物は、どうやら睡眠という人間にとっての三大欲求の一つにすら手をつけたらしい。
 それをどこか忌々しく思いながら少年が寝返りを打つと、コン、という音が耳に届く。何かを叩くような音に聞こえるが、特別変わったものでもないと認識し、彼は気にしないことにした。けれど、その音が再び聞こえてくる。コンコン、と叩くそれはどこか躊躇いがちな印象を受けるが、逆に明確な意思を持ってされているようにすら思えた。
 一度気になり始めると放ってはおけず、少年は上体を起こすと室内へ視線を走らせる。音の出所がいったいどこからなのかが分からなければ対処のしようがない。彼が神経を集中させると、もう一度音が響く。それは、窓からのようだった。
 少年がベッドの真正面にある窓を見れば、そこには人の手のようなものがある。ここは二階だ。普通ならば人の手が見えるはずもない。ゆかりあたりが怖がりそうな幽霊だとかそういった類のものならば、二階であろうと問題はないかもしれないが、それらではないと言い切れた。
 少年の胸の内に確信が生じる。こんなことが出来るような相手を、彼は一人しか知らない。
「……綾時」
 ベッドから降り、鍵をかけたままだった窓を開けて名を呼べば、目の前の人物はどこか安堵したように見えた。
「良かった。三回叩いても気づかれなかったら、帰ろうと思ってたんだ」
 ちょうど今ので三回目だったから、と告げて少年に笑いかけるのは皆の前から姿を消したはずの綾時だった。その姿には、前と変わっているところは見受けられない。あえて変わっているところを挙げるとするなら、少年の部屋は二階だというのに綾時が窓の外にいるということぐらいだろう。
 それが表す事実に少年は小さく顔を歪めた。綾時は、人ではない。現に、どこにも掴まらずとも宙に存在している姿がそれを示している。
 少年の微妙な変化に気づいたのか、綾時は小さく微笑を浮かべた。
「そういえば、浮いてる姿を見せたことなかったもんね。驚かせちゃった?」
「別に、驚いてなんかいない」
 正直少しはびっくりしたけれど、それをそのまま言うのは何となく悔しくて少年はそう返す。
「ちぇ、つまんないの。どうせなら驚いてくれたほうが楽しいのに」
 綾時が小さく唇を尖らせ不満そうにする様子に、少年は呆れるしかない。前回会ったときのあのシリアスさはどこにいってしまったのだろう。
 けれど、綾時の言動や雰囲気などが彼の知る綾時のままでいたことにはほっとした。綾時を殺すという選択は、少年にない。次に綾時と会うはずだった大晦日の時にそのことをはっきりと告げるつもりであったが、まさか大晦日前にその本人が来るとは思っていなかった。
 しかしいったい何のために綾時が訪れたのかが分からない。以前伝えたことよりも、もっと重大な何かを伝え忘れていたとかだろうか。綾時ならばありえる。
「……どうして大晦日より前にきたんだ?」
「もちろん、君に会いたかったからだよ」
 少年が尋ねれば、綾時は笑顔で返す。その返答を想像していなかったわけではないが、やはり実際に言われるのとでは気恥ずかしさが違う。少年は無言で窓へと手をかけた。その行動には一部照れ隠しも混じっているが、本気で閉めようという気もある。
「あっ、待ってってば! 閉めないでよ!」
 気づいた綾時が少年を止めようと、腕を掴んで行動を阻止する。あまりの必死具合に少年は息をつくと仕方なく窓から手を離した。
 もう少年が窓を閉めようとしなくなったので、綾時は安心したのか掴んでいた手を解放して、胸を撫で下ろす。
「ひどいよ、いきなり閉めようとするなんて。本当のことを言っただけなのに」
「お前がふざけるのが悪い」
「でも……本当に会いたかったんだ。もう、君と会う時間が少ないから」
 俯いた綾時の言葉に、少年は何も言わなかった。ただ、黙って窓から手を伸ばし綾時の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。そして、数回頭をなだめるように軽く叩いてその手を引いた。
 綾時は少年の手が離れた後に自分の頭へと触れて、照れたように微笑む。その顔を見て、少年もかすかに笑みを見せた。言葉では何と言おうと、ただ純粋に、綾時と再び出会えた事実は嬉しいものだった。
「あ、そういえば、みんな凄い勢いでシャドウを倒しているみたいだね」
 突然の話題転換に、少年は一瞬思考が追いつかなかった。
 一拍置いてようやく思い当たる節に気づき、小さく頷いた。タルタロスでのS.E.E.S.の熾烈さは昔と比べたら随分と荒々しくなったところがある。ある意味シャドウよりも鬼気迫る状態だと表現できるかもしれない。
「ああ、そうしないとやってられないから」
 その様子を思い返しながら少年が告げると、綾時は寂しそうな表情を浮かべた。
「……そうだね。あんなことを聞かされたら、そうするしかないのかもしれないね」
 あんなこと、とは三日のときに話された死の宣告のことだろう。少年は自嘲気味に口の端を上げ、綾時の言葉を肯定する。実際、聞かされた当初の動揺は皆酷いものだった。今もその平静を得るためにタルタロスに登っていると言ってもいい。
「毎日のように君たちが来るせいで、他のシャドウたちがぴーぴー言ってるくらいだよ」
 茶化すように綾時が言えば、少年は眉を上げた。
「お前、あいつらの考えていることが分かるのか?」
 問われた綾時はというと、どこか考え込むように腕組みをする。どう言葉で表現したら一番近いのか、それを模索しているようだった。
「何だろう……分かるっていうよりも、感じるっていうのかな。伝わってくるっていうか」
「へえ、お前に新たな特技が備わったじゃないか」
「……特技、って言われるとそうなのかも。手放しで喜べないけどね」
 その言葉に悲しげな色を感じ取り、少年は小さく目を見張る。
 馬鹿なことを言ってしまった。完全に失態だ。綾時は自身が『あちら側』に近づいていくことを嬉しく思っていないのだ。だから、喜べないとその口で言った。そんな綾時の気持ちを知っているはずの自分が言うべき発言ではなかった。
「……そうだな、ごめん」
 軽率な発言をした己に嫌気が差すほどだった。少年は歯噛みをし、視線を地に落としてしまう。
「謝ることじゃないよ! だって僕が先に口に出したんだし、君が謝る必要なんてないんだ……!」
 少年のそんな様子を見て、逆に綾時は慌ててしまう。彼を困らせたくて言ったわけではない。ただ、一緒にいることでどこか気が緩んでしまったのか、言わなくていいことまで言ってしまった。少年自身が気に病むことではない。
 他に何を言えばいいのかが分からなくて、少年も綾時も共に沈黙してしまう。言葉を重ねれば重ねるほど本当に伝えたいものとは違った形になっていきそうで、それが怖い。もっとうまく互いの気持ちを伝え合えたら、どれだけの苦労をしなくてすむのだろうか。
 この重苦しい空気を打開したくて、綾時は何か良い案がないものかと思案を巡らす。そのときふと思い浮かぶものがあり、俯いたままの少年に声をかけた。
「あ、あのさ! ちょっと、外に出ない?」
 突然の綾時の提案に、少年は緩慢な動作で頭を上げる。綾時と目を合わせると戸惑うように口を開いた。
「外?」
「うん、外」
「どこから?」
「窓から」
「……窓?」
「うん、窓」
 綾時は少年が問いかけるたびに、頷きながらにこにこと笑みを見せる。少年が訝しげなままでいると綾時はまっすぐと手を差し伸べた。
「掴んで」
 差し出された右手と綾時の顔を少年は一瞬不安そうに見比べる。けれど、意を決して窓枠に足をかけて身を乗り出すと綾時の手を掴んだ。
 少年の行動に綾時は嬉しそうに笑うと、しっかりとその手を握り返す。そして、少年は体重をかけていた窓枠から足を離し、綾時の胸元に飛び込んだ。綾時は少年を落とさないように腰に腕を回して固定する。
 少年はこのまま二人して落ちてしまうのではないかと危惧していたが、どうやらそれはないようだった。二人は、宙に浮かんでいた。
「じゃあ、行こうか」
 綾時は少年に一言かけると、ゆっくりと高度を上げていく。少年の部屋の窓から離れたかと思うと、寮の屋上すら軽々飛び越えていった。
 落ちたら、確実に死ぬだろう。
 そんな考えが一瞬少年の頭をよぎる。いくら綾時が支えているといっても、やはり足場もないため不安が生じてしまう。信じていないわけではないが、無意識に少年は綾時にしがみついてしまった。そしてすぐにそんな行動をとってしまったことに気づいた彼は、恥ずかしさのあまり綾時から顔を逸らす。けれど、その手に込められた力は緩まない。
 綾時は垣間見えた少年の一面に自然と笑みが浮かんでしまう。
「……何だよ」
 綾時が笑ったのに気づき、少年はじろりと睨みつける。だが、薄っすらとその頬は赤く染まったままで迫力はあまりない。
「君って可愛いところがあるよね、って思っただけだよ」
「うるさい」
「そんなに照れなくてもいいのに」
「黙れ馬鹿綾時」
 交わされる言葉に綾時は苦笑を浮かべたかと思うと、そっと少年から視線を外す。それにつられるように、少年も綾時の視線の先を追った。
 眼下には街の景色が広がっていた。地上から見上げるだけでは気づかないものが分かる。視界に映る世界が全く違う。空にある月と星の輝き以上に、街並みの明かりが眩しい。人工的な明かりといえど、それはとても綺麗なものに思えた。
 少年がその光景に気を取られていると、ぽつりと呟かれた音が耳に届く。
「……このままどこか遠くに行こうか」
 綾時へと顔を上げれば、悲しげな色を湛えた眼差しとぶつかった。一瞬その視線が縋るようなものに見えて、少年は視線を外せない。
 綾時の言葉が、胸の奥にそっと落ちてくる。そこに込められた感情に惹かれてしまう。逃げた後のことなんか考えずに、ただ今の現状から抜け出せればいい。
 それが出来ればどれだけ楽なのだろうか、とそこまで考えて少年は緩く首を横に振った。そして、揺らぐことなく綾時を見据えなおす。
「行ってどうする。必ず終わりが来るんだろう?」
 少年の問いに、綾時は困ったように眉根を寄せた。
「えっと、二人で一緒に終焉を迎えよう! ……みたいな」
 綾時が茶化すように言えば、今度は逆に少年のほうが眉を顰める。
「下手なプロポーズより性質が悪いだろ、それ」
「うん、自分で言ってみてちょっと後悔しちゃった……」
「あほ綾時」
「……凄く胸に痛いです」
 少年の容赦ない言葉に綾時がうなだれて答えたかと思うと、次には表情を一変させていた。どこか吹っ切れたような笑顔を少年に向ける。
「でも、ごめんね。今のは無しってことにしてくれると嬉しいな」
 これで終わりとでも言うように綾時は会話を打ち切り、また視線を遠くへ向けた。そんな綾時を見ていると何か感じるものがあり、少年もそれ以上その会話を続けることはしなかった。そして、綾時にしっかりとしがみつくのは忘れないようにしながらも、少年は再度足元に広がる光景を見下ろした。
 光が並びながら流れるように動いているのは車のライトだろうか。ビルの屋上に設置されている看板もライトで照らされている。明滅する光の数々。人が今そこに生きているという事実がある。
 綾時が告げた言葉が間違いではないなら、この世界は終わってしまうのだろう。ここに今生きているもの全てに滅びが訪れる。終焉なんて間違いだと言い切ってしまいたい。けれど、言い切れない。全てを嘘だと笑い飛ばしてしまえるほど、現実を知らないわけじゃない。そして、現実から逃げるつもりもない。
 それでも胸の中に漂う寂寥感が少年にはあった。徐々に体の末端から冷えていく感覚に襲われる。知らず身震いした少年は、次の瞬間小さくくしゃみをした。
 季節はとうに冬であり、パジャマ姿で空の上にいる状態では冷えるのも当然のことだろう。綾時に連れ出された当初は緊張していたせいで寒さに気づいていなかったようだが、ようやく体が反応したらしい。直前まで考えていた寂寞だとかそういったものが、今起こったくしゃみと冷えのせいでどうでもいいことのように思えてしまう。一気に気が抜けてしまった。
 しまいには鼻をすすり始めた少年に、綾時が心配そうに声をかける。
「寒い?」
「……そんなに」
「そう? でも、どうせだからもう戻ろうか」
 少年が意地を張って素直に寒いとは口に出さない姿に、綾時はどうにか笑わないで返答した。ここでくすりとでもしてしまったら少年の機嫌が悪くなることは必至だろう。
 綾時自身は寒さを感じていなかったが、人である少年には寒すぎたかもしれない。これ以上外にいては本当に少年が風邪をひいてしまいかねない。綾時はゆっくりと高度を下げていった。街の明かりが綾時たちに近づいてくる。綾時は少年を抱く力を少しだけ強くする。
 少年をこの腕の中から離したくない。逃がしたくない。出来もしないことを願ってしまうのは、まだ人としての感情が残っているからなのか。
 けれど、そんな想いと行動が合致することはなかった。速度を落として降りたにも関わらず、無常にも少年の部屋がある寮の二階まで辿りついてしまう。窓辺に綾時が近づけば、少年が片手を伸ばし窓枠に掴まる。続いて危なげなく足も桟に下ろすと、するりと室内へと戻っていった。軽い音を立てて少年は床に着地する。
 綾時はその様子をただ黙って見つめていた。先ほどまであったはずの少年の重みが、今はない。背を向けていた少年が綾時を振り返る。窓を隔てただけの距離が酷く遠いものに綾時は思えた。
 手を伸ばせば少年に届く。それでも、遠い。
 無性に寂しさと切なさが襲ってきて、気づけば綾時は少年の体を引き寄せていた。もう一度、少年を腕の中に閉じ込める。触れていたかった。ただ傍にいたかった。叶わない夢でもずっと見続けていたかった。
 気を緩めたらすぐにでも涙が溢れそうで、綾時は少年の肩口に頭を押し付ける。顔を見られたくなかった。少年の前で涙を見せたくなかった。少年が覚えている自身の姿は笑顔だけであってほしい。
 綾時は一度深く息を吸うと震えそうになる声をどうにか押しとどめた。
「……僕の勝手につきあわせちゃって、本当にごめんね」
 いきなり抱きつかれたかと思えばそんな言葉が聞こえてきて、少年は対応に遅れてしまう。綾時の顔は見えないが、何かがいつもとは違う気がした。
「別に、嫌だったら最初からついていかない。だから謝る必要なんてない」
 少年は溜め息を落とした後、抱きついて離れない綾時の背中に自身の手をそっと回す。なだめるように背中を軽く叩いてやれば、余計力を込めて綾時に抱きしめられた。
「そっか、……そうだね。ごめん」
「だから謝るなって言ってるだろ」
「うん、ごめん」
 人の話を聞いているようでいない綾時の返答に、少年は呆れることしかできない。もうどうにでもなれと少年も綾時を抱きしめる力を強くする。窓の縁に腰の辺りが当たって地味に痛いけれど無視をする。綾時がいきなり窓から室内に身を乗り出すせいだ。
 そんなことを少年が考えていれば、ゆっくりと綾時が少年の肩から顔を上げた。泣き出しそうな顔と目が合う。
「……ずっと、僕は君の中にいれば良かったんだ」
「どうして」
 急な綾時の言葉に少年は問いかけた。問われた綾時はそっと目を伏せる。悲しげに顔を歪めて、綾時は唇を噛み締めた。
「そうすれば、宣告者である僕が目覚めることはないし、みんなが絶対の死に怯えることもなかった」
「……そうかもしれないな」
 少年の肯定の言葉に、綾時の肩が少し震えた。
 そんな綾時の様子を見て、少年は小さく笑ってしまう。綾時の反応が以前と全く変わっていなくて、それがおかしい。少年は視線を落としたままの綾時の顔を上げさせる。
 綾時の頬に手のひらを寄せて、撫でる。
「でも、僕はお前に会えて良かった。ずっと僕の中にいても、お前暇だろう? 望月綾時に会えたことを、僕は後悔なんて絶対にしない。もちろん、ファルロスに出会えたことも。毎回安眠妨害されたのも、それなりに楽しかったと思ってるんだからな」
 綾時とファルロスの二人に出会えて良かったと、少年はそう綾時に告げる。少年の言葉を聞き、綾時は胸の中が温かいもので満たされていくのを感じ取った。
 今の自分という存在が誰かにとって良かったと思えるのなら、それだけで生まれてきた意味があると思えた。宣告者としてではなく、綾時にとっての意味がそこに見出せた。
 世界を終わりに導く存在が嬉しいだとかそういった感情を抱いてはいけないのかもしれない。けれど、それでも、少年の言葉は綾時にとっての唯一になった。
 綾時は精一杯の笑顔を少年に向けた。彼と出会えたことを、後悔なんてしたくなかった。
「目、閉じて」
 そう言って綾時が少年の耳元に囁く。
 少年は顔を顰め、何かを言おうとして一旦口を開きかける。けれど、緩く息を吐いただけで言葉は音にせず、そのまま黙って目を閉じた。視界を閉ざせば綾時の気配だけが感じられた。どこか躊躇うような空気が少年に伝わる。
 そして、頬に小さく口付けを落とされた。
「……またね。君のこと、ずっと好きだよ」
 少年が目を開けたときには、綾時の姿は目の前から消えていた。回されていた腕の感触も今はない。ここに綾時がいたという事実が全くなかったことのようにすら思える。
 けれど、夜中だというのに開け放たれた窓が綾時のいた事実を指し示す。開いたそこからずっと風が入り込んでいたせいで室内は綾時が訪れたときよりもずっと冷えきっている。
「……あいつ、閉めていけよ」
 相変わらずこういったところが抜けている綾時に、少年は呆れた声で呟いた。綾時といると呆れることばかりだ。
 窓を閉める際に、ゆっくりと空を見上げる。そこには、先ほど綾時と二人で見た月が変わらず存在していた。一度唇を噛み締め、彼はようやく窓を閉める。
 ふと視線を落とすと、数滴の水の跡が床に残されていた。瞬時に泣き出しそうな顔をしていた綾時を思い出す。拭ってしまうのは簡単だけれど、少年はそれをしなかった。綾時がいたという痕跡を、自分の手で消し去りたくなかった。どうせ、時間が経てば消えてしまうのだというのに。
 少年は自身に女々しさを感じ、それを苦々しく思いながらもベッドに潜り込んだ。頭から毛布を被って小さく縮こまる。
 また明日からタルタロスに登ろう。絶対の終わりでもなんでも勝手に来ればいい。そんなもの叩き返してやるだけだ。まだ終われない。綾時も殺さない。大晦日を過ぎたって必ずまた綾時に会ってやる。
 少年はそう意気込むと、きつく瞳を閉じた。鼻の奥につんとしたものを感じる。涙が溢れ出すときの感覚が少年を襲った。けれど、少年は最後まで涙を流さなかった。今はまだ、流す時ではない。綾時がまた学校に来て、一緒に笑って、何の変哲もない日常を取り戻すときまで、涙を取っておこうと思った。
 少年がようやく力を抜けば、睡魔がどっと押し寄せてくる。綾時に会えたことで、どこか無駄に張り詰めていたものが解けたのかもしれない。
(感謝、しなくちゃな……)
 綾時が消える前に小さく告げた“好きだよ”の響きを耳に残したまま、少年は眠りの淵へと身を投げ出した。
 最後に浮かんだものは、笑顔の綾時だった。
2007/11/09
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