ボクの居場所

 足音が聞こえ、美鶴は顔を上げた。階段から降りてきた人物はやはり彼だった。SEESのリーダーである少年は美鶴の前を通り過ぎ、外出するようだ。
「今日もタルタロスには行かないということでいいか?」
 まさに扉に手をかけ出て行こうとした彼へと美鶴は声をかける。その声に、少年は一瞬身を強張らせた。それを美鶴は見逃さなかったが、追及するつもりはないらしい。
 少年は一拍置き、背中を向けたまま小さく答えた。
「すみません」
「いや、謝ることはない。休息も必要だろう。しかし、あまり遅くはなるなよ」
「……ありがとう」
 一度も振り向かないまま、少年は礼を言うと寮から出て行く。バタンと音を立てて閉められた扉が彼と美鶴を隔てるようだった。あまりにも、遠い。
「おい、あいつは今日もか?」
 丁度少年の後を追うように階段から降りてきた真田が美鶴へと尋ねた。美鶴は今しがた閉じられた扉から目を逸らし、真田に振り返る。
「……ああ」
「そうか」
 言葉を交わしたのはそれだけで、美鶴はソファーに座ると置いたままの紅茶に口をつけた。真田も何も言わず、ソファーへと腰を下ろす。
 望月が消えてからの一週間、タルタロスへは一度も行っていない。リーダーである少年がタルタロスへ向かおうとしないからだ。その理由はきっと望月という少年が関わっているのだろうと美鶴は思うも、何かを彼に言うことは出来なかった。誰の手を借りることも無く、彼自身が自分でその心に決着をつけなければいけないのだ。
 望月と言う少年が、何であるかを。
 それまで見守ることしか出来ない己が歯痒く、美鶴は小さな苛立ちを覚えた。冷めてしまった紅茶が、カップの中で小さく揺れる。

 少年は寮を出ると駅へと歩いた。どこへ行くかを特に決めていたわけではなかったが、足は勝手に動いた。駅に向かう間、辺りに気を配りながら進んだが目的の人物は見当たらない。仕方なしに電車へ乗り込み、少年は外をぼんやりと眺めた。街の明かりが眩しい。
 けれど、何を見ても、それは何かを彼に残すわけではない。先ほどつけたヘッドホンから流れる音楽も、ただ流れているというだけだ。心は、別のものを求めていた。望月綾時という一人の存在を。
 綾時は少年の前から消えた。学校にも来ていない。どうしてか綾時が消えてから、少年は自分の中で何かが欠けてしまった気がしていた。欠けたものを取り戻したい。綾時を取り戻したい。その思いが、少年を突き動かした。今もどこかに綾時はいるはずだと、何となく少年にはそれがわかっていた。
 考え込んでいたら、いつの間にか駅へと着いていたらしい。電車を降りると、街は赤のペンキや張り紙で覆われていた。誰がやったかは知らないが、床にまでびっしりと貼ってあるその光景は異様だ。電車に乗る前もそうだったが、どこを歩いてもそれは変わらない。そのことに少年は眉を顰めた。いつ見ても、気分の良いものではない。これが、綾時が言っていた滅びの始まりなのだろうか。無気力症の人々も増えている気がする。
 少年は否定するように小さく頭を振ると、街を歩き続けた。しかし、人は絶えず通り過ぎるだけで綾時の姿は見つからない。もしかしたらとっくにこの街にはいないのではないか。そんな考えが一瞬頭をよぎるが、きっとどこかに綾時はいると、そう信じて少年はまた探し始める。
 冬の風は冷たく、少年の頬を撫で上げ、体温を奪っていく。吐く息は白く、耳も冷たい。ヘッドホンは電車を降りてから外していた。少しでも、音を聞き逃すことをしたくなかったからだ。何か上着を持ってくれば良かったと思ってみても、今となっては遅い。けれど、綾時もこの寒さの中ひとりでいるのだと思えば、その寒さも我慢できた。
 ただ綾時を探す一心で少年は歩く。ふと気がつくと、目の前は学校だった。いつの間にか辿り着いていたらしい。門は固く閉ざされ、誰の侵入をも許さない。
 顔を上げて少年は校舎を見上げた。まだ影時間ではないためタルタロスには変化していない。彼はその門へと寄りかかり、ずるずると座り込む。がしゃりと音を立てた門がやけに五月蝿く聞こえる。そして、深く息を吐くと少年は目を伏せた。
「……綾時」
 ぽつりと呟き、少年は綾時を想う。そういえば、あまりあいつの名前を呼んだことがなかったな、と彼は気づいた。こんなときになって名前を呼ぶことになるとは思わなかった。瞼を閉じたそこには、綾時の姿が思い描ける。そんな自分に小さく笑い、彼は薄らと視界を開けた。
 そのとき、音も立てずに何かの影が少年を覆った。光が遮られ、少年は確信する。高鳴る鼓動が、示す。
 顔を上げれば思っていた通りの人物がいた。
「……もっと早くに来いよ。僕が探してたこと、知ってただろ」
 本当は別に言いたいことがあったのだが、口から出たのはそんな言葉だった。
 少年の目には、泣きそうな顔をして佇む綾時が映る。少年の中の綾時はいつも笑顔だった。嬉しそうに微笑む姿が、今はない。
「……どうして、僕を探すの。……僕は、君たちを殺す存在なんだよ」
 絞るように出した声がとても悲しく聞こえた。少年は綾時を見上げたまま、その問いを反芻する。
「どうして、か……僕自身わからないよ。……でも、僕はお前を探したかったんだ。見つけたかった。……ただ、それだけだよ」
 そう答えながら、ゆっくりと少年は立ち上がった。足元を払い、正面から綾時を見つめる。綾時もその目を逸らすことはなかった。けれど、その瞳は揺れている。
「……本当は君に会うつもりはなかったんだ。でも、君が名前を呼ぶのが聞こえて……」
 綾時は徐々に視線を落とし、俯いてしまう。少年はその様子を見ながら、一歩、綾時へと近づいた。
「……デス」
「……僕の名前だね」
 少年はもう一歩足を踏み出す。
「……ファルロス」
「……そう、それも」
 そして、最後に一歩、距離を縮める。触れられるほどの傍まで少年は綾時へと近づいた。
「……望月、綾時」
「全部、僕だよ。忘れていたけど、本当は忘れることなんて出来ない僕自身だ」
 その言葉とともに、ぽたりと、地面に小さな染みが出来た。少年はそれを見て、小さく綾時に問いかける。
「悲しいの?」
「……え?」
「涙」
 綾時は少年に言われて、自分の頬へと指先で触れた。冷たく濡れた手が綾時の目に映る。
 そうか、悲しいのだと、綾時はやっと自分の感情に気づいた。一人で日々を過ごす間、酷く胸が痛んだ。何よりも、彼が、少年が必ず死ぬということが胸を痛める理由だった。彼が死ぬ理由が自分自身だということも辛かった。どうして、自分は生まれてきたのだろう。けれど、生まれなければ彼には出会えなかった。他の皆にも会うことはなかった。この感情を、知ることはなかった。
 溢れ出る涙を落とすその姿はただの人間だった。宣告者でも何でもない。望月綾時という人間の姿だ。
 少年は綾時へと腕を伸ばした。涙を流し続ける綾時のその眦を指先で拭う。それはあまりにも優しい動作。そして、涙を拭うとゆっくりと綾時を抱きしめた。
「お前が何であっても、望月綾時であることは変わらない。……僕は、お前が好きだよ」
 少し力を込めて抱きしめ、少年はそう告げた。綾時は、その言葉にびくりと反応する。
 何も知らなかったあの頃、戯れに彼へと綾時はその言葉を求めたことがある。いくら、好きだと綾時が告げても、少年は一言もその言葉を言うことは無かった。嫌いではない、と言ってはぐらかす。
『嫌いじゃないってことは好きってことだよね?』
『そうは言ってないだろ』
『いいんだよ。そういうことにしておくの。でも、いつか君が僕のことを好きだって言ってくれたら嬉しいのに』
『……どうだろうな』
 あの日々はもう戻らないと知っている。自身が宣告者である限り、皆とともにいることなんて出来ない。けれど、少年がその全てを受け入れてくれる。
 冷え切っている少年の体温が、どれだけ綾時を探していたのかを物語る。そのことに、綾時はまた涙が溢れた。ぐすぐすと泣き続ける綾時をしっかりと抱いたまま、少年は優しく言葉を告げる。
「……綾時が好きだよ。もう、どこにも行くな。……僕にはお前が必要なんだ」
「卑怯だ……こんなときになって名前を呼ぶなんて、ずるいよ……」
「そうだよ。僕はずるいんだ。……今更気づいたのか?」
 最後は笑うように告げる少年が綾時は愛おしかった。
 何も、彼は変わらない。
 僕も、本当は何も変わってなどいない。全てが、望月綾時であるんだと、彼が教えてくれた。
 綾時は一瞬自身の腕を上げ、少年を抱きしめようとした。しかし、その腕は少年を掴むことなく下ろしてしまう。本当は触れたかったけれど、それをしてはならない気がした。代わりにただ、己の拳を握り締め、綾時は泣いた。どこからこんなにも悲しいと、愛おしいと思う気持ちが溢れてくるのかわからなかった。
「……綾時、帰ろう」
 少年のその言葉はとても優しい。けれど、自身が宣告者であることは変えようのない事実だ。彼とともにいることなど出来ない。
「でも、僕は……」
「帰ろう」
 少年は綾時をきつく抱きしめ、ただそれだけを告げる。抱きしめるその腕の強さが、声が、少年の全てが綾時を揺るがせる。
 綾時は強く唇を噛み締めた。先ほど決心したばかりなのに、何もかも崩れそうだった。この手で彼以上にきつく抱きしめ、離したくなかった。頭の中で、彼を抱きしめたらいけないと、もう戻れないと告げる存在がいる。それは、望月綾時としての最後の理性。
 けれど、それでも。
 彼を、抱きしめたい。
 綾時は少年を抱きしめた。その腕で少年を感じた。感情が抑えられない。怖い。苦しい。悲しい。ただひとつ、一番感じるのは、愛しい。

 誰が許さなくても、彼が許してくれるのなら、それだけが僕の全て。
2006/09/05
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