ボクの居場所 2

 それは突然のことだった。
「そういえば、最近何か嬉しいことでもあったの?」
 その言葉に、少年は一旦パンを齧ることを止めた。彼の前方の椅子にはゆかりが、横には順平がいる。アイギスが欠けてしまっている今、クラスで昼食を囲むのは三人だ。少しぎこちなく、けれどそれを表面上はあまり出さぬように会話をしつつ空腹を満たしていたその時、唐突に切り出したのはゆかりだった。
 何に気づかれたのだろうか。内心驚いたのだが、それを表情に出すことはせず口内に残ったパンを少年は咀嚼する。紅茶で流し込み、全てを飲み込み終わってからようやく口を開いた。
「……何が?」
「だーかーらー、何だか近頃機嫌が良くない? 何かあったのかな、って思って。ほら、色々あったりして、君……塞ぎこんでたから」
 躊躇うように告げられたその中に含まれたものは多い。アイギスのこと、大晦日に訪れる選択のこと、そしてこの場にはいない、望月綾時のこと。何もかもが現実ではないもののように思える。それほど、衝撃的な事実ばかりが少年達を襲った。徐々に落ち着いてきたとはいえ、ゆかりこそ自分自身で手一杯だろうに、心配をかけてしまっていたようだ。普段通りを心掛けていたのに、全く意味がなかった。
「……別に、変わったところなんてないよ」
 それは真実ではない。けれど本当のことを言えるわけもなく、少年は嘘をついた。だが、そのまま「はい、そうですか」と簡単に引き下がるゆかり達ではない。今まで黙り続けていた順平が、少年と同じく購買で買ったパンを食べ終わったらしく会話に割り込んでくる。
「そんなこと言って、お前変わったところありまくりじゃんよ! 一番目立つのはあれっしょ、食いもん。なんか前より部屋に持ち込む量が半端無い気がすんだけど」
 その言葉に少年は口籠もる。少年が人よりも多く食べることはとっくに周知の事実ではあるが、最近の彼はそれに輪をかけて食べ物を買い込んでいる。先日、ワックのセットを一人で10人前ほど買っていたのを順平に目撃されもした。そういったようなことが一週間ほど続いていれば、不思議に思われていたとしても仕方がないかもしれない。
 暫く口を噤んでいた少年は、残っていた紅茶を飲み干すと順平に視線を向ける。
「……成長期だからかな?」
「おまっ、何考え込んでのかと思ったらそんなことかよ! どうせなら、もうちょっと上手い嘘つけよなっ!」
 首を少し傾げて発したその言葉に、順平はずるりと机の上に乗せていた肘を滑らせた。ゆかりはというと、そんな順平を横目に頬杖をつきながら考え込む。
「んー。……もしかして、何か飼い始めたとか?」
「なになに? 天田みたいにペット飼ってんのか? でも牛丼食ったりワック食ったりする動物ってなんだよ?」
「犬、だったらコロマルもいるし……、猫とか?」
 好き勝手言い始めた二人が面白いのか、暫く少年はその様子を眺めていた。次第に、その口元には薄らとからかうような笑みが浮かぶ。
「……飼ってるっていったらどうする?」
「お、やっぱり飼ってんのか!?」
「本当!?」
 きらりと目を輝かせた順平とゆかりの姿に、少年は更に笑みが零れた。
「飼うわけないだろ。言ってみただけ」
「なーんだ。残念」
「お前って、ほんっと期待を裏切るの好きだよな」
「順平ほどじゃないよ」
「うーわー、順平ったら本当のこと言われちゃったね」
「……あの、ゆかりッチの言葉が一番刺さるんですけど」
 そして、三人は顔を向かい合わせて笑い出した。久々に和やかな雰囲気が流れる。こうやって笑い合うことなど久しぶりだ。少しの間だけでも、笑えることが出来たのは良かった。少年は二人の姿を見つめながらそう考える。
 けれど少年の心を占めるものはここにはない。笑いながら、少年は別の者を思う。そのことを決して彼が口にすることはなかった。

 放課後になると、少年はすぐさま教室を出た。途中友人に何度か声をかけられるも、全ての誘いを断った。何よりも早く、少年の帰りを待つ存在のもとへと帰りたかったからだ。流石に走り出しはしないが、極力急いでモノレールへと乗る。
 そのまま寮へと戻ればいいのだが、下車した巌戸台駅で夕飯となる食料を購入する。今日は牛丼にしようか。そう考えた少年は海牛へと向かった。一人前どころではない量を持ち帰りとして買い込み、それから寮へと歩き出した。両手にかかる荷物が重くとも、それは心地良い重みにしか少年は感じられなかった。
 荷物を抱え寮に辿り着いた少年は、そのまま真っ直ぐと二階にある自室へと向かう。一階には誰もいなかった。そのことをありがたいと思いながら階段を上る。一番奥の自室に帰ることすらもどかしい。靴音を響かせながら廊下を歩き、ドアの前で一度深呼吸をする。
「……ただいま」
 ゆっくりとドアを開き、室内に足を踏み入れる。目に入るのは、人の姿――綾時だ。彼は少年のベッドに腰掛けて、足を小さく揺らしていた。
 少年の部屋は以前と比べ変わったところがある。綾時が存在している、そのことが違う。まだ少年の部屋に来てから一週間足らずしか経っていないのに、綾時がそこに存在することが当然のようになっていた。
 少年は綾時を確認すると、内心安堵する。そんな彼に、綾時はにこりと笑いかけた。
「おかえりなさい」
 自然と出来た約束のようなものだった。そう定義するにはあまりにも脆く、すぐにでも壊れたとしてもおかしくはない、そんな些細な行為。ただいまとおかえり。それは綾時が少年のもとへと訪れた時から出来た、数少ないものの一つだった。たったそれだけのことが、少年と綾時にとっては幸せだと感じられた。今まで与えることが出来なかったそんな小さな幸せを、二人は互いに感じあっていた。
 綾時が気づく程度、微かに少年も微笑むとドアに鍵を掛ける。誰かに知られる訳にはいかなかった。宣告者である綾時がここに存在しているとは、誰にも知られたくなかった。ようやく落ち着いてきたというのに、今気づかれたら大騒ぎにもなるだろう。だから、純粋に綾時を隠さなければならないと少年は思った。
 けれど、それ以外。綾時を自分だけが知っていれば良いという、独占欲にも似たものが少年の内にあったからかもしれない。彼自身はその思いに気づいていないのかもしれないが、綾時はそのことに気づいていた。だが、それを綾時は嬉しいと感じる。少年が求めてくれることが、綾時にとって何よりの喜びであり、幸せであった。
 少年は鞄と先ほど購入した牛丼をどさりと机の上に置くと、ブレザーを脱いで椅子に掛ける。ハンガーに掛けてもいいのだが、別にどちらでも良かった。首元からリボンタイを外し、それも机の上に放り投げる。シャツの上のボタンも一、二個外せば少しは寛げる格好になった。そしてベッドへと歩み寄り、綾時の隣に腰を下ろす。少年はそのまま上体からベッドに勢い良く沈み込んだ。ぎしりとベッドが軋む音と同時に、背中に柔らかな感触が与えられる。ようやくゆっくりと息がつける。
 綾時はそれを見て、少年と同じようにベッドに上体を預けた。向かい合うように少年の方へと体勢を変える。緩く顔に掛かった少年の髪に手を伸ばし、綾時は優しく指先で触れた。少年はされるがまま、安心したように瞳を閉じる。
「……学校はどうだった?」
「別に、普段と変わらない」
 綾時の問いに、少年はそっけなく答えた。だが、ふと今日の出来事を思い出す。少年は目を開き、彼の髪を梳いて一人遊んでいる綾時へと目を合わせる。
「……そういえば、昼食の時にゆかりと順平に何か飼っているのか、って聞かれた」
「なんで?」
 青い瞳が不思議そうに丸くなる。ゆかりに順平という見知った名前にも興味が湧いたようだ。覗き込むように見つめてくる綾時に、少年は小さく笑う。
「お前の分の食べ物を持ち込んでることに不審がられていたみたいだ」
「あー、二人分の食べ物だもんね。君がいくらたくさん食べるからって言っても、ちょっと無理だよね、って位の量だし」
 自炊が面倒で大量に出来合いの物を買い込んでくる少年の姿を思い返し、綾時は納得したように頷いた。今も少年の机の上にはその食料が置いてある。山のように積んであるそれを順平達が不思議に思うのは当たり前だろう。
 小さく漏れ出す匂いから察するに今日は牛丼だろうか。そんなことを思った少し後、綾時は怪訝そうな顔になる。
「……あれ? その話からすると、もしかして僕が飼われている何か、ってこと?」
「そういうことらしい。……不満か?」
「ううん、君に飼われるならそれもいいよね」
「……馬鹿だろ、お前」
 呆れたように少年に告げられても、綾時は笑うだけだった。本当に、このまま少年という檻の中で飼われていたいとすら思った。歪で奇妙な関係に必ず終わりがあると言うことを知っているからこそ、綾時はそう思えた。

 少年が買ってきた牛丼を綺麗に食べ尽くした後、何をするでもなく二人はベッドに座っていた。一言二言、言葉を交わすもすぐに会話は終わる。静寂の中、誰に邪魔されることもなく、ただ二人でいられればそれで良かった。けれど、そんな時間も長くは続かない。
 少年はちらりと腕時計に視線を向けると、時刻を確認する。そして、表示されている時間に気づき、名残惜しそうにしながらも綾時から彼は離れた。
 その行動に綾時は少年へと顔を上げる。
「……今日も、タルタロスに行くの?」
 ぽつりと綾時が零せば、ブレザーに腕を通しながら少年はゆっくりと振り返った。綾時の寂しげな表情が目に入り、少年は苦笑してその額を指先ではじく。
「痛っ!」
「別に、いつもすぐに戻ってくるだろう? ……そんな顔するなよ」
「……うん、そうだよね。ごめんね」
 綾時は額を押さえながら、小さく微笑んだ。何故か、今日は少年に行って欲しくなかった。傍にいて欲しかった。けれど、そんなことを言ったら少年に迷惑をかけてしまう。
 少年は諦めないと言った。タルタロスで力をつけて、ニュクスを倒して見せると綾時に言った。全ては無駄なんだと何度綾時が少年に言っても、彼は諦めないと言った。そんな彼を引き止めることなど、どうして出来るだろうか。
 そうは思っているものの、綾時は少年が部屋を出る瞬間、無意識にその裾を掴んでしまった。引っ張られて、驚いた少年が振り向く。
「行ってらっしゃい」
「……ん、行ってくる」
 行かないで、の代わりに綾時はその言葉をかけた。無理矢理笑顔を作って、少年を送り出す。少年は綾時のいつもと違った行動に違和感を覚えたが、そのまま部屋を出た。
 かちりと外から鍵がかけられる音を最後に、綾時は一人残される。
 一人は寂しい。そう感じてしまう自分に綾時は笑った。少年といると何故だか満たされた。心が休まり、何も心配することなんて無いと思える。けれど、それは一時的なものだ。少年がいるからそう思えるだけのことだ。本当は、何も変わってなどいない。絶対の終わりは必ず訪れるのだ。けれど、少年といるとそのことを忘れてしまいそうになる。全てが幸せだと思える。
 綾時はベッドに腰掛けながら、少年のことを想った。怪我をしませんように。彼が早く戻ってくれますように。ただそれだけを祈るように綾時は想い続けた。

 カチ、コチ、と規則正しく時計の音が響く。綾時がそれに視線を向けると、十二時まであと一分ほどで変わるところだった。秒針が刻まれるのをじっと綾時は見つめる。
 5、4、3、2、1。
 そして、ピタリと時計が止まる。それに合わせるかのように部屋の雰囲気が瞬時に変わった。這うような重苦しさのある空気に室内が満たされる。影時間だ。その認識をした瞬間、ぞわりと綾時の体内で何かが蠢いた。
「……っ……あ、ぐ……っ!」
 全身が粟立つ。だが、それに気づいた時には遅かった。綾時は座っていたベッドからぐらりと前へと体を傾がせた。そして、どさりと床に崩れ落ちる。そのまま小さくうずくまると、胸元をきつく握り締めた。噛み締めた奥歯が軋む。何が起きているのか分からなかった。ただ押し寄せてくるのは恐怖だ。耳鳴りがする。割れるように頭が痛い。急速に体温が奪われていく。何故かその中、一際鮮明に感じられるモノがあった。体の中で声を上げているモノがある。今にも自分という存在をかき消し、どろりとそれが溢れ出して来そうな恐怖に、綾時は声を上げたかった。叫んで喚いて、逃げ出したい。どこに行けば良いのかなど分からないが、ただ逃げたかった。
 けれど、口から漏れ出るのは言葉にならない呻き声ばかりだった。もう、声すら出ない。自我が飲み込まれていくようだ。見開いているはずの両目に映るのは漆黒の闇ばかりだった。何も映らない。それが怖くて綾時はきつく目を瞑る。内側からは綾時という殻を破って何かが出ようとしている。これを外に出してしまったら、全てが終わるような気がした。
 嫌だ。誰か。怖い。消される。怖い。嫌だ。消されたくない。怖い。嫌だ。嫌だ。誰か、
 ――たすけて。
「……ょ……っ……!」
 真っ暗な深淵の底へと引き摺り込まれそうになったその時、声を聞いた気がした。幻聴だろうか。それとも自身の中にある何かの産声だろうか。そう思い、涙で濡れたまま綾時は笑った。何故だか笑いが込み上げてきた。
 だが、その綾時の肩に触れる何かがあった。それは頬にも感じられたような気がした。温かい。いや、冷たい。もう温度がよく分からない。
 そしてもう一度、何かが聞こえた。
「りょうじ……!」
 その声と同時に綾時の意識が浮上する。一度大きく痙攣した後、綾時はぱちりと目を開いた。黒く塗りつぶされていたはずの目が見える。何が起こったのだろうか。明らかになる視界には、綾時の顔を覗き込む少年の姿が映る。
「あ、れ……。どうし、た……の……」
「喋らなくていい」
 弱々しく掠れた声で綾時が口を開けば、少年はそれを遮った。その顔は悲しそうで、泣き出しそうにも見える。そういえば、彼はタルタロスに行ったはずだ。それがどうしてここにいるのだろうか。綾時はぼんやりと少年を見つめた。溢れ出していた涙で少年の顔がぼやけて見える。
 少年はその綾時の体をきつく抱きしめた。その存在を確かめるように、抱きしめる。綾時は酷く体力を消耗していたせいで、腕を動かすことすら今は出来なかった。そのため、綾時は瞳を閉じたまま体に伝わってくる少年の熱を感じていた。温かい。どうやら温度は認識出来るようになったらしい。
 少年は綾時が無事なことに安堵して深く息を吐く。そして綾時をゆっくりと抱き起こしベッドへと横たえさせた。綾時の体に何があったのか。どうして泣いているのか。聞きたいことは山ほどあったが、少年からそれを口にすることはなかった。ただ黙って、涙で濡れたままの綾時の頬を指先で拭う。
「……タルタロスは?」
 暫くして、綾時が少年を見上げて問いかける。影時間は未だ終わってもいない。何故こんな時間に少年が戻ってきたのか、それが不思議だった。
「……お前が今日は変だったから、行く途中で帰ってきた」
 告げられた言葉に綾時は酷く後悔した。少年に心配をかけさせてしまった。それに途中で戻ってきたということは、少年だけでなく他の彼の仲間達にも迷惑をかけてしまったということだ。あまりにも己が情けなくなって、綾時は唇を噛み締めた。
「……ごめんね」
「気にしなくていい」
 少年は緩く首を振ると、綾時に微笑みかける。
「何も心配しなくていい。……ここにいるから」
 そして言葉と共に綾時の瞼の上に少年の手が乗せられた。その手が優しすぎて、綾時はまた涙が溢れた。どうしてか、少年の前では泣いてばかりいる。綾時はそんなことに気づいて、また少し泣きそうになった。
 涙を流すたびに、先ほどの恐怖が薄れていく。少年が傍にいるおかげで、今も人でいられる。綾時の胸に広がるのは温かな感情ばかりだった。
「……きみって、すごいや」
「何が?」
「ぜんぶが」
 鼻声で綾時は少年に告げて、小さく口元を綻ばせた。少年はそんな綾時の姿を不思議そうに見つめている。
 少年が望月綾時という存在を、望月綾時という心を取り戻してくれる。少年を想うと愛おしくて、そして切なくて綾時は泣いた。だが、じわじわと望月綾時は侵略されていく。影時間に飲み込まれてしまう。
 この幸せは、続かないのだ。
 頬を伝い落ちた涙は、シーツに吸い込まれた。影時間はまだ終わらない。明日が、こなければいい。綾時は心の中でそう思った。
2006/12/15
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